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映画 仏陀再誕 感想レビュー(7) 子安仏陀の8分間説法 全文

 映画「仏陀再誕」もちょうど折り返し地点である。
 いよいよ、この映画の中に出てくる、本物のほうの「再誕の仏陀」、空野太陽氏の、大講演会のシーン。
 ヒロインに、「来てくれて、ありがとな」という茶髪の兄ちゃんは、ようやく素直になれたという感じがする。

 さて、ここからのシーンは面白い。
 じつは、「幸福の科学」というものが、どういうものなのか、教義の一部や雰囲気を含めて、ちょっとしたミニ講演会に、映画館のお客はヴァーチャルで参加することができるからである。

『……まず、会場の中に入っていくと、立ち見まで出ている。
 黄色のパンフレット「大講演会」には、箇条書きでなにか書いてある様子。(団体ないし用語の説明か?)
 そして空野氏の講演会が始まる』

 大講演会の会場は、どこかの公会堂みたいな感じである。(だから、立ち見することができたのはごく初期で、後には消防法にひっかかるということでクレームが来て、ロビーなどのモニターで見たように記憶している)
 TISとは若い団体なのだ。講演会もまだ場所を借り、自前の建物がある操念会とは違っている。
 (このパンフレット、一枚欲しい。用語の解説とか、何が書いてあるか知りたい気がする)

 また、古い会員にとって、場内の感じが懐かしい。老若男女、さまざまな人がいる。
 車椅子の人がはいってくる。
 老夫婦がいる。
 子供をつれたお母さんとか。
 制服の女の子とか。
 中には、露骨にむっとした顔で、信じないぞ、という紫がかったシャツの男性がいて、そのとなりに幸福の科学の丸い金色の正心宝(首からさげる、キリスト教徒のロザリオみたいなものです)を下げているにこやかな人がいて、彼が連れてきたのだなとわかる。
 ……いや、このあたり、まるっきり幸福の科学の初期の講演会ですよ。(むっとした人がいるあたりなんかも。)

 また、ふと、席について後ろを見た女性が、ずっと後ろに向かって手を振ると、化粧っけのないふくよかな女性が気付いて手を振り返すシーン。
 これも活動の初期の頃、よくあった光景。
 講演会で友達が出来ても、お互い遠い地域に住んでいるので、次の講演会でしか逢えないんです。知ってる顔に講演会で会うと、こんな風に思わず手を振って喜んでいたっけなあ。
 ……これを見た古い会員さんはいちいち懐かしくてちょっと泣けるところでしょう。
 (ただ、幸福の科学の場合は、前列は、ボランティアとか役員で、しかも赤ん坊は母子室とかで、本会場には入れなかったと思いますが)

 ただ、映画的には、ここでも黒ずくめの背広で固めた操念会とは違うというところで、受付の様子やスタッフの様子を見せてくれるとわかりやすかったかなという気はする。

 そして、いよいよ開演、子安さんの説法のはじまりである。 
 アニメ史上、例がないであろう掟破りの説法シーン。全文、大まかにノート取ってみました。

 『人生の様々な悩みや苦しみは、自らの心を変えないことに原因がある。
 人のせい、環境のせいではなく、自らの心を変えることが必要なのだ。
 だからこそ、宗教的真理が心の教えが必要なのだ。あなたがたの心が飢え、乾く理由はこれらの法を学び、実践しようとしないからだ。
 この世の中がいかに不幸や苦難に満ちていようとも、それを言い訳にしてはならない。
 闇に沈もうとしている世の中で、人々の心を明るくし、幸せにしていくかをどうしたらよいかと言うことを、真剣に考えなければならない。
 人間とは何か。
 人生の目的とは。
 人間の幸福とは何であるか。
 私は常に、あなた方に語っていたはずである。
 人間というものは、この世だけの存在ではないと言うことを。
 人間の本質は、心にある。
 決して肉体にあるのではない。

 心のあるべき姿を忘れた現代人よ、良く聞きなさい。

 貪(むさぼ)ってはならない。
 他の人によく見られたいという心。
 尊敬されたいと思う心。
 他の人にあこがれられたいと思う心。
 有名になりたいと思う心。
 自らの権力をふるいたいと思う心。
 そのような心はすべて、貪りの心である。
 身分不相応に足ることを知らずに、欲望のままに生きてはならない。
 あれも欲しい、これも欲しい、という心を捨てなさい。あくまで奪い続けるという心を捨てなさい。

 怒ってはならない。
 怒りに対して怒りでもって返してはならない。
 動物のように本能のままに怒ってはならない。
 あなた方は人間として生まれた以上、いかに世界を平和にし、自分自身の心を平和にしていくかを考えて行かなくてはならない。
 互いを認め合い、個性の違い、立場の違いを認め合って、ともに暮らしていける世の中を目指して行かなくてはならない。
 怒りを抑えて、平和な心を求めなさい。
 心が平和であると言うことが、幸福であると言うことなのだ。

 愚か者であってはならない。
 あなた方は、真理を知らなくてはならない。
 あなた方の多くは今、暗闇の中を生きているであろう。
 無明の闇、灯りのない世界を手探りで生きているであろう。
 しかし、あなた方は知らなくてはならない。
 この世界の本当の姿は明るく、この上なく美しく見えるものであると言うことを。
 心に真理の灯をつけなさい。
 暗闇を照らす、一本のロウソクに火をつけなさい。
 真理を知るということが悟りの第一歩となるのだ。 
 心を澄まして自らの内を、自らの真の姿を見よ。

 あなた方は知らなくてはならない。人間が永遠の生命を生き、転生輪廻をしているという事実を。

 あなた方は知らなければならない。
 人間が神仏に創られた尊い存在であるということを。

 人間の尊さとは、人間の中に宿れるものの尊さであるのだ。
 この地上的な体験の中で、自らが生かされていることの尊さ、他の生命が生かされていることの尊さ、神仏の創られたる世界の尊さを、強く、強く、感じ取るのだ。
 この世的なる値打ちや価値観に迷ってはならない。

 真理の教えをすべての事象の中心におき、
 判断の基準とせよ。
 あなた方の生命の真なる意味を考え、
 今こそ、真理に気付き、
 自分を、世界を、変革するのだ。』

 ……早い。
 早いよ、子安さん。
 意表を突く、速いスピードでの台詞だ。
 そして、子安さんが、淡々と、さらさらと、まるで、楽の音のように読み上げている早い口調と、BGM(卒業式に流れるような静かで、厳かな美しい音楽)だけが流れている。音楽は、シーンによくはまっている。

 説法の内容は、大川総裁の書籍「仏陀再誕」を、長男である宏洋氏が要約したものである。
 原典の抜き書きではなくて、きちんと映画オリジナルの言い回しになっている。

 説法を大まかに要約すると、
まず、悪霊のシーンでも出てきた、「貪・瞋・痴(とん・じん・ち)」の心の三毒を自らより抜き去ることと、自らに宿る仏性を自覚すること。
 そして、その仏性を常に輝かせて生きるために、釈尊の説いた真理の教えを学び、それを判断の基準として生きなさい、ということ。

 「貪・瞋・痴」は、仏教の非常にポピュラーな教え。
 人の救いは実にシンプルだと改めて思う。
 人が人生でつまづくところは、つきつめていけば誰も皆おなじ、たった三つ程度のシンプルなポイントであり、救いもまた単純なのだ。
 人間はたったそれだけのことが、何千年経っても出来ず、何千年経っても、たったそれだけの教えに背を向けてしまうから、何千年経っても宗教家達は同じことを言い続けるのだなと思うのだ。

 ……このシーンでいいなあ、と思ったのが、説法の間中、画面には、淡々と講演会の様子が映される場面。

 目に見えぬ光の立ち上る、あるいは光が下りてくる演壇で、講義が始まる。
 暗い客席で、老夫婦の妻がそっと夫の手を握り、もう片方の手も握り合い、目を閉じて聞く。指に結婚指輪がひかったように見える。なぜか泣けるシーンだ。
 別な席では、二人のエグゼクティブらしき男達が聞いている。「怒ってはならない」のくだりで、お互いをじろっと横目で見あっている。商売敵か、ライバルか。二人の反応にはちょっと笑ってしまう。
 さらに、あの「信じないぞ」と言う顔していた紫のシャツの人の表情が、「愚かであってはならない」の部分で、明らかに動くのがわかる。
 ほかにも、黒い肌の若者が、祈るように聞いている。隣には白い肌の黒いタンクトップの若者が座っている。
 赤いバンダナをした少女がいる。席がないのだろうか、若い人たちが階段のようなところに座っている。
 暗闇の中で、後光が差していく。
 現れるロウソクの火は、仏教の伝統的な「万灯(まんとう)」の思想の象徴であろうか。一つの炎から灯をうつしても、最初の炎は決してなくならない。いや、それどころか、一つの炎から、千万の炎をとり、世界を明るくすることが出来るという思想……。
 話している演壇のその人の頭上の光が、扇のようにぱあっと開くシーンも見事だ。
 (実際に、大川総裁の講演時には振り下ろす手からサーチライトのようにものすごく強い光が四方に飛ぶのを見た人がいるという話を聞いた。)
 いっぽう、客席では、その演壇の激しい後光に、両手を広げて無言で小さな子が手を伸ばしている。
 ちいさな子供の目に映るさまざまな転生は、おそらくその子の転生なのだろう。(なんか、先頭にいるのは操念会のコマヤマさんに似ているような気がするのは気のせいだろう。伴侶はヒロインのお父さんに似てると言ってましたが)

 やがて画面には、幸福の科学でポピュラーな、宇宙木(うちゅうぼく)があらわれる。
 根本の巨大な光から、無限に光が別れて、一人一人につながっている。
 この宇宙木とは、人間はみな、根本の巨大なエネルギーと、大樹から出る枝、あるいは根のようにつながっていて、我々の体験が根本の仏に伝わり、仏の力はわれわれの内に流れ込み、命となるというふうに、互いに流れていく一つの存在であることを示す図。
 その一つ一つに六体の魂が連なっているのは、六人一組のユニットで転生輪廻することを現している。

 ……客席では、開演前に手を振っていたふくよかな女性は、何をみつけたのだろうか、演壇を見て、はっと息を呑む。
 空野氏からみた客席には、いちめんに、ぽつ、ぽつ、ぽつと後光がともり、客席に幾筋もの光の柱が立ち始める。
 昔、幸福の科学がまだ小さかった頃、大川総裁は研修会の質疑応答で、「総裁の喜びはなんですか」と聞かれたとき、「荒野に一輪ずつ、花が咲いていくように、人々の仏性に灯がともっていくのを見ることだ」と、語っていた。
 それはきっと、こういう光景なのだろう。
 そして最後に、あちこちで光が出始めた会場の中、一人、ヒロインも座って、明らかにその頭上には光が降りてきている……。

 ……ここまで、講演時間、小生の手元の時計で講演の台詞は六分弱、全体で八分程度。

 いや、お見事である。
 しみるシーンであり、パニックシーンとは別な意味で、何度でも見たい。
 こんなに見事なシーンになるとは、小生思っていなかった。
 それどころか、正直、始まる前に最大の懸案でヒヤヒヤもので、内心では一番手に汗を握っていたシーンだったのである。

 たとえば、アニメやコミックでも演説のシーンはある。しかしそれは、話の内容が奇天烈だ。
 (あまり例は出したくないが、『HELLSING』(ヘルシング)の、胸の悪くなるような少佐の演説、とか)

 ……だが、まともな宗教が、正統派の説教をする。しかも、数分間ぶっ通しで。
 映像はただお客が聞いているだけ。
 ……そんなシーン、シナリオの教科書では絶対厳禁だし、事実、やろうとした人も、成功させた人もいないはずである。
 普通はお客を退屈させないように、動きを出し、静止画やイメージを用い、ありとあらゆる手を使う。
(演説どころか、会話だけでも持たせるのは大変だ。最近では、アニメ「化物語」で、新保監督とシャフトが、演出の極みのようなすさまじい芸をもって、ほとんどが会話でできているような西尾維新氏の小説を見事にアニメ化したのは記憶に新しい)

 そんな前例を知っているから、長い説法のシーンがあると聞いて、いったいどう料理するのかと思ったら、なんとガチンコで、えんえん、場内の様子と演壇の様子のみを映していく。
 なのに、退屈せずに八分近くを見せる。一人の宗教家のお説教で、じゅうぶん間が持ってしまう。
 こんなシーンが成功するというのは、この目で見るまではちょっと考えられない。アニメ史上、誰も見たことがない、新発明のシーンではないか。

 しかも、会員の鈴木さんの報告では、映画館での反応は、なんと客席に会員が多いときより、一般客が多いほうがシーンとして聞いていたのだそうである。
 一般の人にとっては新鮮な体験だったのだ。
 映画を見に来て、それまでしたことのない体験をさせてお客を帰すことができた、と言う意味でも、優れたシーンではないか。
 単にアクションやショックの刺激は出尽くした中で、静かな説法をもって斬新な体験をさせる、そんな映画はお目にかからない。
 「もっと評価されるべき」、とは、まさにこのシーンのことだ。

 ……しかし、幸福の科学の信者から見た不満は、さらさらと読まれる説法の内容が全く耳に残らなかったということである。
 (実はこれは意味のあることなのである。こうなった理由については、あとでちょっと触れ直してみたい。)
 ただ、アニメのシーンとしては、完全に成功している。しかも、映画の中にきちんとはまっているのだ。
 これで作劇が乱されるどころか、この五分で、観客もなんとなく、空野氏が再誕の仏陀だと納得してしまう。
 これこそが、本物の宗教者の説教の実力であろうし、それをそのまま説法にしたご子息の発想・シナリオの全面勝利である。
 ……宏洋さん、やったね! と言いたい。
 記念すべき一作目のシナリオでこれだ。二十一歳、才能の開花に、心よりお慶び申し上げる。さらに、彼についていったスタッフ全員のお手柄でもある。若い人が常識破りをやって成功したのだ。
 アニメの一つの可能性を、この映画は見せてくれたのだ。アニメ映画の常識を一つ、破ってくれた。
 いや、いいものを見せて貰った。
 もはや、小生の中では、映画のほかの疵は、このシーンを成功させたと言う快挙で全部ふきとんでいる感じがする。
 ……というわけで、ここでレビューをやめてもいいのだが、なにか、楽しみにしてきて下さる方もいるらしく、続けられるだけ続けさせていただきます。

 さて、ところで、会員さんのあいだで不満になっているのは、「子安さんの朗読が早くて残らない」ということについて。
 
 じつは、子安さんの朗読が早口だったので、どれだけノートを取るのに苦労するかと思ったら、なんだかわりと楽だったような感がある。
 言葉をはっきりさせ、一定の速度で読める、スペシャリストとしての声優さんの力を思い知る。

 そして、この読み方にはちょっとした理由があるように思う。

 スタッフは、空野氏と、荒井氏を、万事対照的に描いている、ということだ。

 たとえば、ちょっとここで、空野氏の背広の襟の幅にご注目。
 この襟の描き方にはスタッフが空野太陽という救世主をどういう風に見せたいか、というヒントがあるように思う。
 作画が乱れているのでわかりづらいが、空野氏と、その他の大人達の襟の幅が違うのである。
 スーツの襟には二つ横に張り出した山があり、上側はカラー、下側はラペルと呼ばれる。その分かれ目がゴージラインといわれる。
 スーツのオーダーを出した人ならわかるが、じつはこれらの細かい形で、人に与える印象を操作することができるのだ。
 この映画を見ると、ゴージーラインにはみな、区別は見られない。
 しかし、下襟、ラペルに当たる部分には違いが見える。
  ちょっと作画が荒れて、襟の幅がとんでもなく違っていたりするのでわかりづらいが、自殺した記者や、悪の教祖・荒井東作氏や、その側近のコマヤマさんは襟がワイド(広い)に描かれることが多い。

 ワイドな襟は豪華な感じ、人に威圧感を与えるような印象を持たせ、いかにも「猊下」といった感じ。
 荒井氏は、ワイドな襟が年齢相応でもあるのだが、コマヤマさんや自殺した記者あたりもかなり襟を広めにとって書くことが多いようだ。

 対して、再誕の仏陀・空野氏の襟を注意していると、わりとナロウ(狭い)がちに書かれていることが多い気がする。
 ナロウ(狭い)な襟はシャープで若々しい印象を与える。切れ者で、企画や研究職などの鋭さを演出することに使われたりもする。

 つまり、スタッフは、荒井東作氏たちは「いかにも、一般に考えられている宗教団体のトップらしさ」や威圧感を出し、空野氏には、大仰に人を威圧することはなく、自然体で若々しい鋭さを強調しているのではないかと思う。

 この対比が、空野氏の説法の口調にも出ているのではないかと推察する。
 ニセモノは、こってりくどい言い回しを使い、大仰に話してみせる。
 だが本物は、淡々と、むしろ早口で、さらさらと流れる、ふつうの口調なのである。
 これは実に良い対比であるように感じる。
 (最後で仏陀の意識になったときの子安さんの抑揚は、淡々としていながらゆったりとしていて、また空野氏ともちょっと違うことにも注目)

 また、この映画は、大川総裁の説法に敷居が高い人たちのための映画でもあるわけであるから、さらさらと流れるような説教で、あとでじっくり聞き直したくて本を手に取る、というのもいいのではないか、と思うのだ。

 (……もちろん、大川総裁の講義を聞き慣れた会員には、どうしても食い足りないんですけどね。そこは本家本元の説法をお聞き下さい、ということで。

 それから、五十歳を過ぎた、現実の大川総裁の背広の襟はある程度ワイドでゴージーライン高めだと思います。これはお年や役職から考えて、そうでないとおかしいですから、念のため。)

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