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2010-03

2010年02月07日 『信仰と未来社会』福岡国際センター(3)  

この後に来るのが、小生がもう一つ、強烈な印象を受けた箇所。

 具体的に当日のノートを読み返してみる。

  総裁「二千年三千年前は、まだ地球レベルのものの考え方はできていなかった。そのために、今まで説かれた教えは、この『地球』に住む我々という考え方はなかった時代の宗教であった」
 「釈迦なら今、この時代をなんととらえ、何を正しいと言うか、イエス・キリストなら何が間違い何が正しくこのように進むべきであるというか、それ宗教を信ずる人も知りたいはず」(要約 小生)

 心ある宗教家ならば、まさしくその通りのはずである。
 もっとも、今の職業的宗教家はそれすら知りたがらず、
 「仏教は無神論です。そう大学で習いましたから」
 「葬式宗教で何が悪いのですか」
 などという輩が大半をしめているが、心ある宗教者はいるはずである、と信じたい。

 そして、ここで坂本龍馬が例に出される。

  総裁 「坂本龍馬は「日本人」とか「日本」について明確に意識したある意味では最初の人であると言われている」(要約 小生)

 なぜ、ここで坂本龍馬が出てくるかというと、

 総裁「我々は、「地球の中に住む人間」としての正しい生き方を説く宗教が必要とされている時代に生きている。」(要約 小生)

 と語っていく。龍馬の当時のスタンスが、今、スケールを変えて必要とされている、ということなのだ。
 講演は、次のように続く。

 総裁「かつての宗教家たちを越えて、地球レベルでものを考え、これから先にあるべく、未来社会についての姿を、あなたがたに語りしめそうとしている」(要約 小生)
 
 総裁「人類が、七十億人、百億人に人口を増やしていこうとしている、この時期に、もし神仏あらば、人類に新しい真理を、教えを説かないでいるわけがない。
 このときを逃して教えるときはない。
 これが新しい時代の始まりである」(要約 小生)

 こうやって、文字で読むと、確かに総裁は以前からこうしたことは語られていた、と思う。

 しかし、この日、この場でリアルタイムにこの言葉を聞いてみると、衛星中継での総裁の印象はまるで違って感じられた。
 まことに無理なく地球の人々全員に向かって、話している印象を受けるのだ。
 なんというか、「意識のギア」を、一つあげられたような感じとでもいったらよいのか。
 今までより一段、大きく階梯を上られた場所から語られている気がする。
 さきほどの坂本龍馬の比喩になぞらえていうと、この日の、総裁は、正しく「地球人」の意識を持つ、史上初の人類として語っている感じ、だったのだ。

 そう、この時、小生が受けたショックは、それまで、人類史上で見たことのないタイプの人間……
 「この星ではじめて、自分を『地球人』として認識したの人物」
 ……を、壇上に見た、というショックだったのだ。

 いや、これはものすごいことですよ。

 SF文学でかねてから予言 (……だと小生は思っている) があった、「地球人」という概念であるが、それは、かつて、この霊系団が数百億年かけても得られなかったものではないのか。

 その「地球人」が、あたりまえになる新しい時代が来る。
 それがどんなものかを、この日、聴衆に総裁は示された。

 ……じつは、「新しい時代」とか、「新しい人」とか、言葉で言うのは簡単なのだが、なかなか人には想像がつかない。
 具体的に、それを見せてくれないと、なかなか「新しい人」というものはつかみがたいものなのだ。

 それを行った例というのは、例えば、夏目漱石の「三四郎」、である。
 今読むとなんのことはない作品なのだが、あれは、当時、時代が変わって、全く新しい生き方をしている若者をありありと書き出し、当時の人々に新しい、都会の人間像を示しショックを与えたため、といわれている。当時の人々は驚き、三四郎を幾度も読んだ。

 (ちなみに、文学ではこういう例は多く、石原慎太郎都知事の「太陽の季節」や、村上龍の「限りなく透明に近いブルー」も、同じ趣向を感じる)
 ただ、残念ながら、そこに出てくる若者たちのあり方は、必ずしも幸せな生き方ではなく、迷える人々の迷える姿だった。
 漱石がそれを乗り越えて「則天去私」の理想にたどり着いたのは、まことに死の直前である。
 まあ、作家は人間の迷いを描くのが文学で、解答など出すのはとんでもない、というのが近現代の文学的常識なのだから彼らに解答を求めるのはお門違いなのだが、さて、現実にたちかえったとき、我々は、想像もしなかった環境が現れたときに、誰かに生き方のお手本を示して貰わなければ、うまく適応することがなかなか出来ず、不幸になってしまいがちではなかろうか。

 ……その点、この日の総裁は、「新しい意識の人」の姿を具体的に示したのみならず、
 「あなたがたは、環境や時代が変わったときに、このような人になり、このように生きなさい」
 という手本を示されたように受け取れた。

 これがまた凄いことなのだ。

 未来の人間の精神の姿のプロトタイプを自身の姿で示すということは、「生き方の発明」であり、この年の幸福の科学のテーマである「創造」の人というテーマにぴったりとあっている。

 くりかえしていうが、この一時間は、はじめて天地に「人間」というものが想像されたことを見たような新鮮な驚きと、高揚を想像させるような一時であり、
 「ああ、地球人、とはこういうものなのだ。
 いずれ、私たちは、いや、地球に生まれる全ての人が、あたりまえのこととして、この感覚を身につけて生きていくことになるのだ」
 という事実をはっきりと味わった瞬間でもあった。
 歴史の変わり目に立ち会ったという密かな感激を、この日、聴衆は受け取ることが出来たのだ。

 この意識の変革は、やがて世界を覆い尽くすだろう。
 積雪の中をやってきた甲斐があったとしみじみ思った。

 総裁 「私の言葉の中に未来の種子が宿っています。私の教えの中に人類の未来が見えてくるはずです。なぜならば、未来はわが言葉の上に築かれていくからです。」」

 この言葉は伊達ではない。
 まさに、聖書クラスの言葉である。
 そのすさまじさに、鳥肌が立つ思いがする。

 そして、その宇宙が開けた「新しい時代」がどのようなものかが、この講演の最後に、語られていくのだった。

 しかし、なによりこの流れは、正月に収録したという霊言集「宇宙の法入門」と、それは無関係ではないと思われる。

 正直、この講演会を拝聴した時には、なぜこうした講義をされたのか、不思議な感じがした。
 ところが、講演会から三週間かけて、ちまちまと、このブログを書いている間に(←時間かかりすぎだ!)、幸運にも「宇宙の法入門」を聞く機会があったのだ。

 「宇宙の法入門」は、三時間半の長丁場で、第一部はエンリル・孔子・アテナ・リエントアールクラウドで二時間、第二部は、ゼカリア・シッチンの守護霊とアダムスキーで一時間半、というすさまじい顔ぶれの霊言をえんえん聞くセミナーである。セミナーとはいえ、法談も瞑想もない、三時間半のマラソン拝聴会みたいな感じであった。

 終わった後にもはや世界と未来が全く違って見えるショッキングな体験はそうそうできるものではない。
 伴侶と共に再び見に行き、研修室でビデオを見つつ、「ううむ、すごい、おもしろい、すごい」と言いながらやっぱり二度目も最後まで見てしまった。
 この本は三月十五日発刊だそうである。
 
 ……話が横道にそれてしまったが、その「宇宙の法入門」では、もはや明日にでも、宇宙の人々が公衆の面前に現れそうないきおいで、いまにも世界がかわってしまいそうにも聞こえる。
 あのセミナーの収録が今年の元旦だと言うから、この講演も、おそらくはその流れにのっているのだと言えるのではないか。
 
 ……以下、次回に続きます。
 (それにしても、「宇宙の法入門」は凄すぎでした。正直早くレビューが書きたい。書籍発刊まで待った方が良いのだろうけど、さわりぐらいは書いてしまいたい。
 降霊の姿の実際の迫力は、書面では見られないので、それも記録に残しておきたい。
 さらに、二度、三度とくりかえし研修を受けて見、感想を話し合って考えると、どうも霊人達の言葉尻や動作から、その場で語られなかったいろんな事が推測できる内容だったので、見た人たちの考察をも、ここに記録しておきたいのだ。
 ……それにしても、もう、とうぶんこの霊言でお腹いっぱいなのに、今年はまだまだ霊言が目白押しで、「アガシャー」「吉田松陰」「悪魔との対話」に続き、職員もまだ見ていない「マホメット(二時間)対ミカエル(一時間半)」の対決スピーチ霊言もすでに収録されているという噂。
 絶句ものである……どうなるんでしょう、この一年。)

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