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2018-05

覚え書き「さらば青春、されど青春」感想(4)テキストだけではわからない教えの側面。あるいは、人と機械をわかつもの

(4)テキストだけではわからない教えの側面。あるいは、人と機械をわかつもの
 最後の1点。
 「宗教の映画」、として見たとき、この映画は、「宗教には、言葉として残らない、とある教えの側面がある」という事実を伝えている。
 この1点が意識された箇所が、2カ所あった。1カ所は魔の誘惑のシーンであり、そしてもう1カ所は主題歌の最後である。
 まず、魔の誘惑のシーン。
 映画の魔は、聖書の悪魔より仏典の悪魔に近い。
 聖書の魔は、イエスの前に現れて「世界をお前のものにしてやる」とか「崖の上から飛んでみろ」とか、しろうとの我々でも「おかしい」とわかる言葉で、イエスを試してくる。しかし、仏典の魔は、より巧妙で正論を使うように見える。
 その魔の語る内容は、まったき正論に聞こえる。実に立派な、正統な、大人な、理路整然とした内容で、たとえば、これが過去の偉人の助言の一つだと言われても、納得してしまうものなのだ。
 早い話が、魔の登場シーンの台詞の内容をそのままに、背景の映像と音楽を神々しいものにさしかえれば、輝く高級霊の登場のシーンとして描いても通用してしまうのだ。台詞の内容だけ、見るならば。
 しかし、その心根には歴然たる悪意があった。
 それと正反対のケースのもう1カ所が、主題歌の最後である。
 主題歌の最後はこう歌われている。
 「透明な風になんて、けして、ならないでね」。
 ああ、神よ、なんということだ。
 この団体には、「私はあなたを理想とし 透明な風のごとくの愛となり」という祈願文があるのである。熱心な会員は、毎日それを読んでいる。
 なのに、それに真っ向から抗するがごとき、ヒロインのこの台詞は、字面だけ見ると悪魔の誘惑だ。
 しかし、これを映画の最後の最後にもってきている、ということは、その心は、悪魔の誘惑などではなく、悟りたる人の捨てようとしている青春を「されど青春」としていつくしむ気持ち、あるいは、キリスト教で言えば、非業の最期を遂げるイエスに、聖母マリアが全霊の愛を注ぐように、ヒロインが一途に対象を思い続ける深い愛情にある、と解釈して良いのだろう。
 これが何を伝えるか。
 テキストでは伝わらない「なにか」が、真理の世界にはある、ということではないか。

 これに関して、ちょっとだけ、ミヒャエル・エンデの『満月の夜の伝説』という短編を連想した。
 内容は「とある国に、真剣に長年修行を積んできた徳の高い僧と、どうしようもないならず者がいて、ならず者は高僧に心服していた。あるとき、徳の高い僧が、悪霊つきの狢(むじな)に騙され、大天使を見たと思い込んでしまう。しかしならず者は、『おかしいぞ。心の清くない自分にまで大天使が見えている。これはペテンだ』と見抜き、高僧を守るために狢を射殺した」という物語である。
 (もとは今昔物語と宇治拾遺の収話で、インドにも類話があるのだそうで、小泉八雲も「常識」という小説にしているが、エンデのものだけは微妙にテイストが違うように感じた。単に味付けが洋風で話のふくらみの豊かさが違うだけなのかも知れないが)

 なにが言いたいのか、というと。
 ようは、聖典や、真理の書物をいかに暗記して引用し、形式的に宗教のこの世の形を踏襲していようと、言葉にならない、別の「なにか」がわかっていなければ、天使の作用と悪魔の作用をとり違う、ということなのだ。
 おそらくその「なにか」がわかることが、人と機械を分かつものに関係しているような気がする。(大川総裁は「機械と人間を分かつもの」を「情緒」という言葉で語られたことがあるが、それが果たしてここで当てはまる言葉なのか、いささか自信がない)
 たとえば、現在。
 教団で言えば、説法の引用や単なる質問へのアンサーなら、総裁の膨大な法話を読み込ませた機械のほうがよほど早く、正確にしてのける。そういう時代だ。その機械の機能はとてもありがたい。拙宅でも、ささやかながら、これまで営々と打ち込んできた書籍のデータベースでの検索が、「あ、あれ、どこに書いてあったっけ」と、情けなくも自らの老化に狼狽したとき、探す時間と手間を大幅にカットしてくれる。
 だが、それだけでは人は踏み誤る。
 もしも、遠い未来に、その教団の膨大な説法の文言から、言葉を操り理論をあやつって、自らのいいように人々を操縦し、人を誤った方向へリードしようとする存在が現れたとしたら。
 そのとき、言葉になりきれない、あるいは言葉の正統さとは裏腹の、「なにか」の真贋を感じ、見抜く力がなければ、それを押しとどめることはできないのではないか。
 映画の中に描かれたのは、
 「一見して全てが正論な台詞が悪魔のものであり、逆に、まっこうから祈りの言葉を否定する台詞が、ひとりの女性の祈りにも似た愛であった」
 という事実であった。
 大川総裁自らが、「そういうこともあるのだよ」と、映画の中で示すことを許された。これはもしかしたら、テキストを読むだけでは得られない「なにか」に関する、数少ない、貴重な教えではないだろうか。
(そしてその「なにか」を伝えるために、「芸術」が人には必要なのかもしれない、とも)

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