夢の中で自分は、大きな学校のような、研究機関のようなところにいた。
美しい気持ちのよい場所だった。
緑の芝生に大きなロータリーのような灰色の舗装道路が敷かれてあり、大きな白い研究棟とも学校とも言える建物がある。
家族も一緒だった。
なにかの作品あるいは研究発表の大規模なコンペがあったらしい。
講堂や教室では、子供達の発表もあるようだった。
夢の中の自分も、その大きなコンペに参加しようと作品を作っていたのだが、その作品は壊れてしまっていて出すことができなかった。
その建物の外で、大川総裁に出会った。
総裁がこちらにやってきたのだった。
総裁がすぐ目の前で立ち止まる。
少し言葉を交わしたかも知れない。
しかしやがて、自分は、早口で、こう口走っていた。
「先生。
必死に頑張ったのですが、こんなになってしまいました」
自分は、手のひらより一回り小さな、鮮やかな黄色に様々な色の線の模様の入った固い破片をさしだした。
壊れた自分の作品だった。
『失敗です。すみません。私は失敗したのです』
その言葉が声にならず、ややうつむいて、黙っていると、大川総裁はさっとこちらに手を出し、こちらの手のひらの上の黄色の固い破片をつまんでとって、ごくりと飲み込んでしまわれた。
えっ!?
混乱して、声にならないぐらい驚いていると、大川総裁は、差し出したままのこちらの手のひらに、一回り大きな別の「かけら」を置かれた。
かけらは、ぼんやりとした白地にグレーのぼやけたもようが入り、黄色や赤の細かい模様もまざりあっている不思議なものだった。
無言で、総裁は去っていかれた。
自分は
「これでもう総裁先生にお会いすることはないのだろうな」
と思っていた。
ところが、場面が変わって、体育館ほどの大きなガレージ、あるいは格納庫のような場所で、ふたたび大川総裁に逢った。
またお逢いできたことに、夢の中の自分はとても喜んでいる。
大川総裁は、明らかに、どこかに出立するところだった。出立前の慌ただしいひとときを、用意された椅子に腰掛けて待っておられるようだった。その服装は、こちらが目をやるごとにかわり、シャツにズボンだったり、パジャマらしきものだったり、ローブのようなものを着ていたりしていたように思う。
総裁は、ここで仕事をされていたが、具合が悪くなったので「車」で迎えが来て、住居にお帰りになるということらしい。
奥様らしき女性が一人、段取りをつけるので大忙しで走り回っておられた。
奇妙なことに、そのガレージは、中央の床面が、50mプールくらいの大きさで正方形に四角く深く掘られてあり、壁面は金属か何かでかっちりと固められている。何か別な大きな乗り物の発着場のようでもあった。たとえば、入り口から浮いたまま入ってきて、中央でそのまま下に降下して着地できるような乗り物の。
ガレージの入り口は開いていて外は白く明るく、風が吹き込むような気がする。
自分は「総裁は、熱があるのではないだろうか。こんなに外の風が入ってくるところで大丈夫なのか」と、心配しているところで目が覚めた。
夢はそこまでだった。
目が覚めた後で気になって、総裁が下さった破片に似たものはないか、画像を検索していると、ビアンコカララという種類の大理石の中にそっくりな柄のものを見つけた。(赤や黄色の細かい模様はないが)
実は、1990年前後に入会した古い会員さんというのは、大川総裁に逢う夢をわりとしょっちゅう、年に一二回くらい、いや、それ以上の頻度で見ているものなのである。小生もご多分に漏れずだが、最近見たのは数ヶ月前で、しかも「大川隆法」と称する人の言動が偽物っぽかった(←なぜか偽物だとわかる大川総裁の夢もよく見る)。
油断していたところ、突然、見てしまった。
ここ最近、大川総裁の夢を見た人は、意外と多いかも知れない、と思う。
あるいは、これは自分のための夢ではないかも知れないと思い、ささやかな記録を残しておく。
幸福の科学学園の卒業式が行われたのは、ニュースの前日だった。
翌日、その報を聞いて、
「自分たちの卒業式に重ならないようにしてくださったのだ。
先生は、私たちを、みていてくださった。」
と涙した卒業生たちがいたという。
ビジョンが思い浮かんだ。
卒業式の赤い絨毯の上を、晴れやかな笑顔の子供たちが歩いて行く。
その姿を、大川総裁が微笑んで見ておられる。
卒業式の日の空はじっと見ているだけでなぜか胸に染みるような、なんとも言い難い青さだったそうだ。
幾人かの父兄は、その空にカメラを向けて撮影していたという。
その空の下で、学園の玄関前の「希望の鐘」が高らかに鳴らされ、鐘の下は、記念写真をとる生徒達の歓声で満ちている。
大川総裁が静かに、それを聞いて微笑んでおられる。
いま、これを打っているのは深夜だ。
冒頭のリンクは産経ニュースだ。
比較的幸福の科学に好意的だった産経のニュースですらこんな書き方か、と思う。(もっともNHKと産経は安倍政権時に、「実現党の味方をした」との厳しいお達しがあったそうなので、実現党の取材をした記者の皆さんはみな追い出されているのかも知れないが)
まことに今日一日、てんで好き勝手にざわめいた世間の口よ。
そのざわめきの中で、世界中で捧げられた信者の方々の祈りはどれほどのものだっただろう。ましてや、肉の身の総裁の身近にいた方々の心中を思うと、正直、言葉もない。
この夜が明ければ、さらなる戦いが始まる。
しばらくは、大川隆法という宗教家の書を読まず教義を読まず、テンプレのイメージや虚言の証言をとりあげて、さまざまに語り揶揄して笑う声が溢れるかもしれない。
けれど、大川隆法という人の教えを受けたことのある人びとは、いま静かに、こう思っている。
『私たちのやることは、変わらない』と。
昨日そうであったように、今日も、明日も、明後日も、教えを学びそれに従い、淡々と生きていく。
それだけだ。
そのための教えは、すべて説かれている。
『波騒(なみざい)は世の常である。 波にまかせて、泳ぎ上手に、雑魚は歌い雑魚は躍る。けれど、誰か知ろう、百尺下の水の心を。水のふかさを。』(吉川英治)
あれほど、「八十歳、百歳と、現役で法を説く」とおっしゃっていた方が、予定を切り上げられたのならば、何か急な御用ができたか、何かご都合があったのだろう、と古い読者ならみな思う。
まるでこの日の予言のように、昨年の2月「信仰薄き者たちへ」という短い霊言説法のなかで、「今、大川総裁が亡くなったら」ということが語られ、その時、それをどう考えるべきかということが説かれていた。
(願わくば精舎等でこれまで通りのお布施でその法話が拝聴できるように。おそらく必要な人が大勢出るだろうから)
正しくそのメッセージを受け取った者たちには、何があろうと迷いはない。
これから何が起きるだろうか。
意外と大川総裁は、明日になればけろりと起き上がっているかも知れず、あるいは何も起こらないかも知れない。
また聖書ばりの復活劇があるかもしれず(総本山のある栃木県は土葬を許可する県であると聞く)、もしくは火葬にされた灰や遺骨が聖遺物となってさまざまな奇跡を起こすかも知れない。
その逆に、何も起きぬがゆえに残された人々がイエスの12弟子のごとくに目覚め、この教団は長い苦闘ののちに、この星の誰もが認める世界宗教となるのかもしれない。
少なくとも、教団の祈願は力を増すだろう。古い会員は、大川総裁ご自身から「肉体の枷を離れたときに本来の力が出る」という話を、以前に伺った覚えがあるから。
いずれにせよ、誰の予想もつかないシナリオを展開されるのがお好きな方である、と思う。想像を絶する展開が待っている気がする。
それにしても、ついにこの人物をこれまで受け入れることのなかった日本という国よ。
明日以降、ニュース等で大川総裁の法話が流れ、日本中を駆け巡ることがあれば、それが最後の日本人達へのはなむけになるだろう。やがてそのニュースすら、新たなニュースの波に洗われて消え去ってゆくのだ。
この教団が本物であるならば、そんなさえずりとは無関係に、その歴史の波をものともせぬどころか、長い時間をかけてでも、逆にその波をせき止めて変えてゆく巨大な山脈となるだろう。
かくて歴史は始まる。
その一方で、その巨視的物語とは別に、どのように世の中が変わろうと、我々読者にとって、変わらない事実があった。
本を開けば、いつもそこに大川隆法総裁がおられた、ということだ。
経典を読む者はこれからもずっと、この教えを食べ続け、心に力をつけて、長い長い道をともに、歩いて行く。
これからもその事実は、変わらない。
何年後も、何百年後も。
そして、おそらく、何千年後も。
]]> 「大川総裁の講演会の上空にUFOの群れが来ていた」とか「病気が治った」という出来事が当たり前のように起きていて、そうした話は大々的に喧伝されている。
しかし、昨年の聖夜祭で、法話の真っ最中に起きたこと……あの件について、なぜか会員さん(いまは信者さんというのか)は騒がないようなのだが、あれはちょっとした奇跡ではなかったのか。
去年行かれた方は思い出していただきたいのだが、前半2~30分ころに、突然タイミング良く、公演中の総裁の時計のふたが開いたでしょう?
あれとよく似たケースを、二十数年前に目撃した会員さんたちがいるはずだ。確か書籍「発展思考」のセミナーでの事だったように記憶しているが、質疑応答の時に質問者のマイクが不良で、(接触が悪かったのだと思う)が、質問者の声がスピーカーから出ないことがあった。その時に、総裁はそちらに指を向け、ちょっと指を鳴らすような仕草で「これでどうかな」「よっ」みたいな声を出されると、マイクがぱっと治ってしまったことがある。人数限定のセミナーだったが、噂は広がった。
翻って昨年である。
昨年の聖夜祭の前半の内容は、日本史の講義だった。
歴史の授業というのは、歴史に詳しくない、興味の無い人というのはかなり辛いものがある。遠路はるばる来ていた学生さんや一日忙しく働いたボランティアスタッフ、知的にあまり強くない方々等、会場のあちこちで、意識がもうろうとしてしまっていた人が出た様子だった。
その瞬間
――ぱちん。
先生の時計のふたが、ひとりでに開いた。
会場、衛星会場、聴衆全員の目が覚めた。
会場中では
「え?」「え?」「え?」「え?」
というクエスチョンマークが飛び交ったに違いない。
先生はおかしそうに「もう一回やって見せようか?」と時計のふたを開くのを実演して、会場じゅうの雰囲気が変わってしまった。
そして後半。
もう誰も寝なかった。
おそらく後半からは指導霊が変わったのではないかと思う。
こういう「優しい奇跡」も総裁は実にお得意な方である、という所見に、古い会員さんは同意してくださるはずである。
……三十年、リアルタイムで総裁の法話を聞いていると、こんな面白いことがけっこうあった、という話。
明日の聖夜祭も家族で聞く。
明日の今頃にはまた新しい聖夜祭の余韻でさめやらぬであろうから、今のうちに書いておくことにした。
( <追記> 十年程前からこのブログをやっていて、「そろそろ使命も終わったかな」という潮目になったので、これ以上邪魔にならんよう沈黙してから、ずいぶん久しくなりました。気のせいかも知れませんが最近またお呼びがかかったような気配を感じたので書いてみました。10年間、公開しないまま下書きで書きためた映画評などがあるので、様子を見ながらあげてみようかと思案中です。)
]]> 新潟は大陸の窓口の1つである。
静かで、住みよい町である、と思う。
港があり、新幹線で一~二時間と、首都圏へのアクセスも抜群。
エネルギーにも恵まれている。
さらに、米をはじめとして美味な食べ物が豊か。多くの漫画家の出身地であり、毎年毎年雪に降り込められながらも、創作家達を育んできた平和な町だ。
……しかしそれは、危機意識の低さも育んではいまいか。
新潟は、日本侵略を考えたとき、軍事的に要所である。
以前にもこのブログで書いてみたことがあるが、ここさえ押さえれば、新幹線であっさり東京に乗り込んでテロは起こし放題、工作のし放題なのだ。
しかも、大陸→新潟は海路であっという間だ。
治外法権の広大な施設を作り、新潟に船を横付けして、大量に工作員を入れてしまえば、たやすく日本が手に入る。
実は、それが成就しかけたのが、信濃川のほとりの、広大な新潟領事館の建設だった。
このブログで、そこがどんな場所か、実際に写真をとってアップロードしたことがある。
この時は、全国のネットの衆の応援もあり、新潟で複数の団体が立ち上がり、その一手は、ひとたび潰えた。(実はこのとき、新潟領事館の阻止に動いていたのが、幸福の科学の新潟の在家有志であった)
しかし、その後、明らかに中国の資本らしき人々が、次々と新潟の土地を買い、人を送り込み、「平和的に」浸食しかかっているという。
佐渡はかなり厳しく、市内でも、もう中国人街のようになっている団地があり、市内中心部でも、古い下町では、不動産屋が空き貸家に次々と外国人シェアを勧めているらしく、マナーが悪くて地域の住民は困惑し果てているが、どこに相談を持ちかけようもない、という。
さらに、左傾知事が続いている。
彼らは県民を苦しめる「置き土産」を残していく。
このたびの選挙の原因となった前知事。
前知事選挙戦では、彼は左翼の応援を受けているにも関わらず、以前の「原発推進」のイメージがあったために、
「まぁ今は反対のことを言っているけれども、節操のない男らしいから、ちゃんと知事について状況見たら以前言ってたとおりに再稼働すするだろう」
という判断で票が集まったらしい。
その「節操のない男」、なんと県政と全く関係ない、ツイッターの発言によってあちこち問題をばらまきまくり、訴訟やら何やらで問題を起こしまくり、最後は「出会い系サイトを利用し、複数の女性と援助交際していたことを自ら認め」記者会見で「武士の情けで許して欲しい」という迷言とともに舞台から退場した。
これがまた、ここまで女性問題で政治家を次々いじめ殺してきたマスコミが、この一件に関してだけは、まったくあっさりとした報道しかしない。マスコミの皆さん、非常にわかりやすいなあと感心する。
……そしてこの知事選である。
全国区では流れない、ローカル局の知事選報道は、ずいぶん露骨に片方を応援していたという。毎日のように、左翼女性候補のカラフルなスーツと、ときおり有名人のゲストをからめて派手に華麗な報道、その後で地味な男性候補の報道を繰り返したそうだ。
女性知事誕生まったなし、というムードをローカル局はつくりたいのだろう。
さらに、論点だという「脱原発」。
原発は、確かに危険だ。
いずれ必ずなくなることだろう。
だが、そのためには、現実に、かなりの科学技術の進歩か、あるいは今の文明をすべて捨てて100年、200年前の暮らしに逆戻りする覚悟が必要だ。
少なくとも、今の「脱原発」というのは、現在、単に石油エネルギーを増やしてごまかしているに過ぎないのではないか。
脱原発をした欧州の某国は、隣国の原発から大量の電気を買っている。
どこのマスコミも報道しないが、原発を止めてからの日本は、高いお金を出して、買わなくてもいい大量の中東の油を輸入して、皆さんが嫌いな「二酸化炭素の大量排出」をして、やっと保たせているだけのはずである。
この応援で早々に新潟入りして「脱原発は実現する」と叫んだという枝野さん。
我々には、あなたがた旧民主党は、鳩山政権下で原発を推進し、二酸化炭素の削減量を上げる、と、当初公言していた記憶がある。その流れはどこへ消してしまわれたのだろう。
脱原発と称し、石油を買って電気を作る高いコストのツケは、我々の給料が上がらないことに直結し、日本人はそのぶん貧しくなっている。
いま原発を全再稼働したら、日本の産業、人々の暮らしがどれほど楽になるかは、わかっていながら誰もふれることがない。
なぜなら、人々の「生き辛さ」を利用して、マスコミはこれ幸いと嫉妬心をあおり、政府を倒すのに利用しているからである。
日本の人々、新潟のみなさんもまた、おそらく、やすやすとその術中にはまりはしないだろうか。
日本の状況をもう一度書いておく。
知事選のすぐ直後、米朝会談で、老トランプが、ついうっかり、北朝鮮に騙されるかもしれない。
韓国と北朝鮮が統一国家になって、核を再建するかも知れない。
そんな中で、新潟に、左翼が全押ししている知事が誕生する。
新しい知事が、
「原発の永久放棄」と
「新潟領事館計画再始動」
この2つの政策を実行するだけで、脱原発によって日本の力を確実に弱らせ、地の利の良い場所に領事館・あるいは外国人街を建設することによって、大陸からの侵略のルートが開けることができる。
現在、知事選前夜。
今のところ選挙戦はマスコミでも読み切れず、五分五分なのだと聞いたが、前回も、保守優勢だったにもかかわらず、大逆転で、前の知事が選ばれてしまった。
今回はどうだろうか。
運はまだ、新潟にあるか?
運はまだ、日本にあるか?
そう問うて、結果を見守っている。
前回の更新で書いた、「無防備な高級牛の群れ」のような日本。
その国が、なぜ食べられずにここまで来られたか。
それは、地球の番長、アメリカ合衆国が、子分になるという約束のかわりに、守っていてくれていたからだ。
ところがオバマ元大統領就任以来、それも怪しくなってきた。
オバマ氏は就任するや「番長なんてやめました」「お金もないしね」「僕たち弱者だし」みたいなことを言い出して、それまで子分としてきた国たちをあっさり守ることをやめてしまった。そのため、世界では起きなくてもいい内戦が起きることになった。
その後、ノーベル平和賞を貰い、原子爆弾の慰霊に日本まで来ていただいたのは立派ではあるのだが、自国の落とした原子爆弾二発については「空から災厄が舞い降りた」という表現で、謝罪とは言いがたい台詞であった。
オバマ氏のお立場はわかる。さすがに謝罪はできません、ということなのだろう。謝れば、自国の勇敢な戦士達を侮辱することになる。
ただ、日本人として言わせて貰う。
「これ、韓国だったら絶対生きて帰れなかったであろうスピーチでしたよね」 と。
そのすっきりしないスピーチを、現地の人との「許しの抱擁」でうやむやにされたような気がした。
さらにまずいことに、これで活気づいたのは日本の「核を持たない、原子力を憎む」人々だった。彼らは積極的に原発停止と軍備削減を声高に叫び、政府もそれを無視できない。
いっぽう海外の独裁者達は、この件について何とも思っておらず、順調に日本攻略のための軍備を厚くしているので、結果的にますます日本という「高級牛」を囲む狩人の囲みが狭くなった。
そこへ日本にとって、救いの神が現れた。
トランプ大統領という昔気質(かたぎ)の番長の出現。
この人物の出現は、いかに日米のマスコミが彼を袋だたきにしようと、明らかに、日本にとっての国防上の朗報だった。
ところが、赴任当時は「北朝鮮を空爆して中国の息の根をとめる」と勇ましかったのが、今や
「北朝鮮と対等に会談を持つ」「北朝鮮の体制を保障する」
という。
しかも、この米朝会談、日本にとっては危ない流れになる可能性がある。
大川総裁の近刊霊言「司馬遼太郎 愛国心を語る」によれば、
「たとえ物理的に非核化を完成させても、彼らにはすでに技術があるのだから、いくらでも再建は可能」
「あんなので平和会談など行ったら、事実上の米朝の『手打ち』だ」
「米朝会談をするなら、アメリカに呼びつけるぐらいでなければだめだ」
「日本の立場はない。もはや、頼み込んでお情けにすがって拉致被害者を帰して貰うのがやっとだ」(前掲書よりまとめ)
米朝会談の結末によっては、日本の危険度は上がっていく。
トランプ大統領は、なぜ、一見「心変わり」に見えることを言い出したのか。前掲書によれば、
「トランプ大統領には、老人特有の短気の症状が出ている」
という。
強烈な言動で、忘れがちになるが、トランプ大統領は御年70歳だ。
「年を取ると忍耐力がなくなる。自分の先が長くないため、待つことができず、目先のことを早く解決したくなり、根気がなくなる」
「だから側近のクビをすぐに切る。
だからシリアも「これで終わりだ」と言いたがる。」(前掲書よりまとめ)
確かに、なんだかトランプ大統領、妙に北朝鮮の処理を急いでいる気はした。
北朝鮮が折れてきたときに「もうこの問題は決着がついた」とアピールしているように感じがしていた。単に国内のスキャンダルのせいだと思っていたが、なるほど、加齢のせいであった、という説は、大変納得のいくものである。
そして、彼と安倍首相に敵対する他国の独裁者の皆さんは、と言えば。
なんのことはない、全員、トランプ大統領と、ついでに安倍首相の任期切れを待っているのだ。
なにしろ周囲の独裁者の皆さんは、全員任期が終身制で、しかも、若い。頑健そうで色つやもよろしく、彼らに時間はたっぷりある。
彼らは、たった数年間だけ自重したふりをして、我慢すれば良いのだ。
オリンピックで平和ムードを醸している間に、安倍首相とトランプ大統領の任期は終わるだろう。
いや、それまで待つ必要はないかも知れない。
日米のマスコミは、諸悪の根源はこの2人だと思っているので、躍起になってひきずりおろそうとしている。
任期満了よりも早く、日米のマスコミがそれぞれの大統領を討ち取ることに成功したら。
次に出てくるのはまたしても、「民主党政権」の復活である。
日本においては、自民党が倒れなくても、マスコミの顔色伺いのために、きっちり左翼の人材が総理大臣になるだろう。「鳩山・菅の悪夢」ふたたび。
その後のシナリオは、考えるだけで憂鬱になる。
「中国はアメリカと「天下二分の計」で地球を分割する予定で、作戦に入っている。」(前掲書より まとめ)
その攻略の1つの山場は、日本という豊かな国を、他の独裁者よりなるべく多い取り分で植民地化することのはずだ。
トランプなきあと、マスコミも政府も、こぞって「いかに穏便に、中国と北朝鮮に、日本の処遇をすませていただくか」「いかに戦争なく、日本を中国・北朝鮮の植民地化するか」だけを考えることになる。
おそらく、マスコミは「中国が日本を征服しようと思っているなんてありえませんよ」ということだろう。
だが、中国が「世界征服」の夢を捨てない限り、日本の攻略は、絶対に成し遂げなければならない重要事項だ。
戦略ゲーム好きな方は、中国を主人公とした「世界侵略ゲーム」を考えてみると良い。
プレイヤーであるあなたは、中国としよう。
ゲームの勝利条件は、世界制覇である。
そのために、まず、中国であるあなたは、アメリカと「天下二分の計」に持ち込まねばならない。
ハワイまで侵略していかなければならないわけだが、その際の攻略ポイントはなんといっても日本である。
日本を落としたら、豊かな経済と地の利が手に入り、一気に攻略が成就する。
そのために、あなた(中国)は、平和路線に見せかけながらも、確実に次々と一手を重ねていく。
武力による日本の海域侵犯、領空侵犯。
韓国をたきつけての尖閣と、ありもしない「南京大虐殺」「従軍慰安婦」の世界的なネガティブキャンペーン。
台湾も使える。
「中国軍の台湾海峡演習に、アメリカは反応していない」「台湾が寝返れば、日本は中国の手に落ちる」(前掲書より)
いいではないか。着々と、日本を落とす準備はととのっている。
なにしろ、これだけ責められていて、日本人には危機感が皆無どころか、積極的に軍備を減らそう、こちらへの疑念を持つ連中をつぶそう、という風潮をもっていてくれているのである。
さらに日本は唯物論国家。われらが中国に極めてメンタリティーが近いのも救いだ。
ただし、今、軍事的に事を起こしても、アメリカに勝てる見込みはない。
ならば、日本の困窮した地方に入り込み、じわじわと食いつぶして、アメリカとの戦争が始まる前に、日本の中国の拠点化をはじめよう。
北海道では、大変順調に攻略が進んでいる。
そして、ここに、名前の挙がらない、超重要な侵略要所がある。
新潟である。
ここを押さえれば、実は、「日本攻略」イベントは、実に簡単にすすめることができるのだ。
【新潟知事選 雑感1】「世界は平和ではない」ことに日本だけが気づかない。マスコミという優秀な「洗脳機関」のもと、日本は知らぬ間に他国の侵略を許す
現在、国内のテレビ・新聞は、安倍政権下ろしに躍起だ。
気持ちはわかる。霊言「司馬遼太郎 愛国心を語る」によれば、
「安倍内閣が中身があるように見せて『綿菓子』を売っていた」
ために、日本経済がうまくいっていないのであり、
「嫉妬心が強くなり、『左翼待望論』が出てきた」
ということなのだそうである。
しかし、視聴者から一言、申し上げたい。
……平和な時にやれ、そういう事は。
マスコミが一定の敬意を払われているのは、私たちより認識が優れた人を集めて、判断の材料を提示してくれるからのはずである。
少なくとも、一般市民よりも多くの情報に接している。
そんな人々なら、わかるはずなのである。
「再び独裁者の時代が来た」(前掲書)と。
独裁者というと、マスコミはここしばらく、安倍首相やトランプ大統領がその人だと示し続けている。
いやいや、違うだろう。
あなたがたの番組を見ている我々でもわかる。
独裁者とは、中国のトップであり、北朝鮮のトップであり、ロシアのトップである。
彼らは全員、自分が国のトップを死ぬまで続ける、「終身主席」制度を法律で作り上げ、強大な軍事力を持ち、核兵器を持ち、そして日本を狙っている。
前掲書ではこれにさらに「韓国の文在寅大統領」が加わるという。「日本のマスコミには、文大統領のことを『大江健三郎が大統領になった』ように見えている」(前掲書)ので持ち上げているが、韓国ではいま、「南北統一に逆らうヤツは極右」という言論弾圧が始まっている。彼は現在「陰謀家」であるが、どうやら「ファシストの雛」というわけだ。
この状況を平和に向かった雪解け状態とは呼べないだろう。
にも関わらず、テレビ画面の登場人物に「いま、日本が占領されそうだという危機感」を持つ人が1人も居ない。そして、口を開けばモリカケモリカケ。
「大局観が必要なときに、『週刊誌政治』に全体が引きずり回されている。」
「国際政治では今や蚊帳の外におかれ、巨弾を国際政治に撃ち込みたいのに、醜聞で動けない安倍内閣」(前掲書)
なぜこんなことになっているのか。前掲書では、
「マスコミは、堂々たる主張が出せないから、他の話題に逃げを打ち、時間つぶしをし、何か仕事をしているように国民に見せている」のであり、さらに、「朝日 対 安倍首相」の構図が復活してきていて、お互い相手の首をとることだけを考えているのではないかということだった。
政府と、マスコミ。
この国を動かしている2つの大きな権力が、保身のために互いに睨み合い、互いの息の根を止めるために食い合いをしている。
だとしたら、これで一番ワリを食っているのは国民である。
ワイドショーを見ているとぞっとする。
この国はもうかなり長い期間、モリカケ中心に相撲やアメフトのスキャンダルだけをえんえん流している。まるで何かの洗脳を食らっているかのようだ。
そして、国外の軍事関係のニュースは1つも伝わってこない。
日本を取り巻く危険な状況を知っていながら、こんな番組作りをしているなら、実はマスコミのトップは、「日本が占領されるの前提にして、ひたすら全国民に麻酔剤を打ってるのと違うか」と言いたくなる。
ふりかえってこの三十年、日本に関する状況はどうであったか。
戦後、領土は広くとも貧しかったとある隣国に、「私たちが悪かった」といいつづけて稼ぎのうちからかなりのお金を渡していた。
すると、いつのまにか、そこには、超巨大な独裁軍事大国が出現して、大量の核兵器を持ち、照準は日本に向けてセットされていた。ところが、この事実を、ほとんどの日本人が知らなかった。
1990年代、東京ドームで1人の宗教家(←大川総裁のこと)がそのことを口にするまで、ごくごく少数以外、そのことを誰も意識しなかったし、マスコミではタブーになっていた。
これが30年前の日本でのできごとだった。
その後30年、状況は危ういままだ。
マスコミも政府も、ほんとうに正確に日本を取り巻く状況を把握しているなら、毎日、天気予報で天気図を見せるように、
「今日の中国軍の軍事行動」とか、
「人工衛星から見た今日の北朝鮮のミサイル基地の活性化状況」
とかを流していただきたい。
ミサイル一発飛んでから警報だけ鳴らされても、次の瞬間に我々は真っ白な灰になっていることだろう。
けれども日本は、軍備を持たせないように、持たないように、それどころか軍備を貶め、財源を削ることで「シビリアンコントロール」と称しているかのようだ。
にもかかわらず、軍事費とエネルギー源の原発を削減するたびに、国民で喜び合っている、この豊かな小さな国。
独裁国家から見れば、この国は、あたかも、番人のいない、まるまる肥えた「高級牛」の群れに見えるだろう。
中国、北朝鮮、韓国、ロシア。
外の諸国、すなわち「狩人たち」は、どうやってこの「高級牛」をいただくか、一番美味しいところはどこの国がとるか、いただいたあとはどんな料理にしようか、もはやその算段までできていると思われる。
そんな目で見られているのに、「食材」である「高級牛」たちだけが、愛と平和を信じているのだ。
たとえば草原で、高級食材の牛たちが、狩人達の存在に気づかず、無防備に平和に暮らしている、とする。
あるとき、高級牛の群れの中で、「おい、俺たち、食われるんじゃないのか。用心した方が良くないか」と発言する牛たちが出現した。
「俺たちにはツノがあるじゃないか。戦って、俺たち自身と、女房子どもを守らないか」と。
そして、「誰もやらないなら俺がみんなを守る」と、単身、ツノを磨いて身を鍛え始めた。
……これはいかん、と、「狩人たち」は、牛たちの中でも、声の大きな牛たちにこっそりと会いに行き、愛と平和の尊さを説き、「ツノを磨く牛たちは対話をないがしろにして平和な世界を侵略に出かけようとしているのだ」と嘆いてみせた。
それを聞いた声の大きな牛たちは、義憤に駆られて、彼らの持てる語りの技の限りをつくして仲間達に訴えた。
心の底から感動した多くの「高級牛」達は、不安がる牛を仲間内でをいじめ殺せば、世界が平和になるのだと思いこみ、それを実行した。
直後に「狩人たち」がやってきて、牛の群れ全てを殺してたいへん美味しくいただいた。
……こう書いていくと、まるでイソップ寓話のようだ。
実に面白い。
自国でさえなければ。
映画「セブンイヤーズインチベット」に描かれている、中国のチベット侵略の時、中国はこの手法を用いて、チベットの「平和勢力」の力を強め、国をとることに成功した、という。ダライラマは未だ母国に帰れない。
そして、チベット同様、自分たちを狩人達の食材のテーブルに載せるための大きな役割を、新潟はいつでも果たしうるポジションにある。
これに関して、ちょっとだけ、ミヒャエル・エンデの『満月の夜の伝説』という短編を連想した。
内容は「とある国に、真剣に長年修行を積んできた徳の高い僧と、どうしようもないならず者がいて、ならず者は高僧に心服していた。あるとき、徳の高い僧が、悪霊つきの狢(むじな)に騙され、大天使を見たと思い込んでしまう。しかしならず者は、『おかしいぞ。心の清くない自分にまで大天使が見えている。これはペテンだ』と見抜き、高僧を守るために狢を射殺した」という物語である。
(もとは今昔物語と宇治拾遺の収話で、インドにも類話があるのだそうで、小泉八雲も「常識」という小説にしているが、エンデのものだけは微妙にテイストが違うように感じた。単に味付けが洋風で話のふくらみの豊かさが違うだけなのかも知れないが)
なにが言いたいのか、というと。
ようは、聖典や、真理の書物をいかに暗記して引用し、形式的に宗教のこの世の形を踏襲していようと、言葉にならない、別の「なにか」がわかっていなければ、天使の作用と悪魔の作用をとり違う、ということなのだ。
おそらくその「なにか」がわかることが、人と機械を分かつものに関係しているような気がする。(大川総裁は「機械と人間を分かつもの」を「情緒」という言葉で語られたことがあるが、それが果たしてここで当てはまる言葉なのか、いささか自信がない)
たとえば、現在。
教団で言えば、説法の引用や単なる質問へのアンサーなら、総裁の膨大な法話を読み込ませた機械のほうがよほど早く、正確にしてのける。そういう時代だ。その機械の機能はとてもありがたい。拙宅でも、ささやかながら、これまで営々と打ち込んできた書籍のデータベースでの検索が、「あ、あれ、どこに書いてあったっけ」と、情けなくも自らの老化に狼狽したとき、探す時間と手間を大幅にカットしてくれる。
だが、それだけでは人は踏み誤る。
もしも、遠い未来に、その教団の膨大な説法の文言から、言葉を操り理論をあやつって、自らのいいように人々を操縦し、人を誤った方向へリードしようとする存在が現れたとしたら。
そのとき、言葉になりきれない、あるいは言葉の正統さとは裏腹の、「なにか」の真贋を感じ、見抜く力がなければ、それを押しとどめることはできないのではないか。
映画の中に描かれたのは、
「一見して全てが正論な台詞が悪魔のものであり、逆に、まっこうから祈りの言葉を否定する台詞が、ひとりの女性の祈りにも似た愛であった」
という事実であった。
大川総裁自らが、「そういうこともあるのだよ」と、映画の中で示すことを許された。これはもしかしたら、テキストを読むだけでは得られない「なにか」に関する、数少ない、貴重な教えではないだろうか。
(そしてその「なにか」を伝えるために、「芸術」が人には必要なのかもしれない、とも)
タイトルの「さらば青春、されど青春」。
タイトルの短い字句には「青春」が2回出てくる。
前半の「さらば青春」という字句は、小椋佳氏の曲のタイトルとして有名であり、以降、70年代~80年代ころにかけて、さまざまな場所で実によく使われたフレーズであったと記憶している。(その返礼なのか、劇中には小椋佳氏の「俺の汽車」というマイナーな名曲が、レコードから流れている)
だが、問題なのはこの後半、「されど青春」という一語だ。
この字句はさまざまに解釈できる。
おそらくは、主人公の開祖が、自らの若き時代をふりかえって大切にいつくしむ言葉にも聞こえるが、その真意は測りがたく、あたかも映画の主人公のカップルの行く末と同様、謎(リドル)といえば謎だ。
けれど、複数の解釈を許すのが名作の条件でもある。
ここで、本来の意味と、まったく異なる解釈をお許しいただけるなら、個人的には、視聴後に流れる同名の歌曲の最後の最後の一句で、意外にな風景が見えてきた。そこに現れるのは2つの異なる「青春」である。
1つ目の「青春」とは、おそらく人生の最も輝かしい時節であり、それに象徴される人生の喜びのことだ。
映画の最後、主人公はそれに別れを告げる。
単に年をとったからではない。
「全てのものを犠牲にしても」なさねばならない招命によってである。
若者には「試し」がおとずれ、荒野にてイエスを試みにあわせ、菩提樹下で釈迦を試しがごとき葛藤の果てに、その「青春」に別れを告げる。
だが、次の瞬間、そのひとの前に広がった世界は何だろうか。
ラストシーン、牛込公会堂での講演会。降り注ぐ光の中で、演壇に立ち、彼を求める大勢の前に悟りたる人が立ち、主題歌は最後に歌う。「ぼくの夢はまだ、終わらない」と。
悟りたる人の夢とはなにか。言うまでもない。世界のすべてに、光をもたらすことだ。生きとし生けるものに、悟りという名の幸いをもたらすことだ。
そしてその夢のために、真理のためにすべてを捨てて、我が身を多くの人の贄にせんと決意し、動き出したときに、その人に訪れるのは、実は、永遠に輝かしい、2つ目の「青春」だったのではないか。
その青春は果てることがない。
その青春は褪せることがない。
その青春は、永遠の別名である。
かつてイエスが、「我を信ずる者は永遠の生命を得る」、といった、その美しい生命のイデア、そのものである。
信仰を捨てぬ限り、その青春は尽きることがない。
この境涯を垣間見たあとにふりかえれば、「肉体の青春」は、実は「永遠の青春」の模倣(ミメーシス)にすぎない。「肉体の青春」は、神が「本来の生命の輝きとはなにか」を想起させるため、人生の一時期、人に与えた「気づきのよすが」でしかなかったのではないかと思い至る。
若き悟りびとは、「さらば、わが青春」とつぶやいた。
けれど、主題歌の最後を聞き終わったあとに、続きの言葉が去来する。
「されど我、永遠の青春を征く」、と。
この青春に、年齢は関係ない。
性別は関係ない。
国籍は関係ない。
そして、この道は、とりたてて大きな使命のない自分、先師の背を見て、その道を覚束なげに辿るだけの自分にも、同じく拓ける「青春」の道なのではないか。
この考察の、真偽のほどはわからない。だが、どうぞ劇場へ、と申し上げたい。
永遠の青春の欠片が、そこにあるかもしれないから。
この映画は、実利的に見た人を成功させる映画である。
要は、この映画の中には、
「どうしたら世界的な思想を残す思想家になれるか」
「どうしたら成功者となるか」
という問いの答が描かれているからである。
一言で言えば、その答は、努力、努力、努力である。
ひたすら本を読み、書き写し、カードを取り、くりかえす。
社会に出たならば、松下幸之助語録にあるように「給料の十倍働く」。よく頭を下げては努力を繰り返す。
映画に描かれていない成功のポイントがあるとしたら「体力の涵養」だろう。主人公は若さに任せて明け方までいつも仕事をし、著作をまとめる。
その出発点には、つねに「自分って、平凡だよなあ」「天才ではないよなあ」というしみじみとした自覚であり、高ぶることもおごることもない淡々とした精神である。
昔から「やくざ映画を見た映画館から出てくる人は、ヤクザのごとく肩をいからして出てくる」と言われたものだった。
映画の作用として、見た人が主人公に影響を受け、世界観に影響を受ける。
ならば、この映画を繰り返し、繰り返し、我がものとせんと思い、大スクリーンで潜在意識にまで刷り込むことに成功した人は、このあとの人生で、高ぶることなく淡々としてひたすら学び、仕事をする姿に近づくことだろう。
教祖の姿に、姿勢に近づくことで、自らも精神的・あるいはこの世的な成功を得る。
それこそが、宗教の始祖の教祖伝を読むことの1つの大きな効用のはずだ。
この映画は、その意味で、映画史上かつてない「人を成功に導く映画」と言えるのではないだろうか。
(しかもそれを演じているのは総裁に口元が生き写しのご長兄で、おそらくは、霊能力が使える人物である。いちいち神下ろしのシーンで本気で霊力を使っており、再現ドラマとしての質は最高に近い。
純粋に映画としてみた場合の、演出や脚本の気になる点……それは教団が毎年2本3本と劇場版映画を作っているがゆえの時間の足りなさにあるはずだ……は、むしろ、後世へのリメイク欲を掻き立てることになるだろう。いや、この映画に限らず、幸福の科学の映画は、すべからくリメイクや舞台化を前提とした壮大な後世への「ネタ集」になっていくのではないかと、思われる節があるのだ)