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真夜中に小声で歌う (_旧_幸福実現党観察日記_)

映画「ドラゴン・ハート」感想(5) あの濃すぎる「竜のカオの秘密」を考察してみた

 ちょっと一つ前の更新があんまりにあんまりだったかなと思いまして、 (宗教活動として視聴する真面目な信者さんにできるだけ見つからないように) 隠す意味で連続で更新させていただきます。

 さて、ここまで序盤だけを細かくレビューしてきましたが、このペースで感想書いていくと、感想レビュー最後まで書き終わる前に、映画の上映終わっちゃいますね、これ。
  (出版さんは配信や円盤は必ず出すでしょうから、そのときに読んでいただいてもいいのですが)
 うーん、レビューを続けるかどうしようか、中断するにしても、その前に一つ書きたいことがありました。

 ……カオです。
 竜のカオ。

 チバシゲさんにお会いした後で、子供たちが地獄にいくことになりますね。
 竜が子供たちをのせて飛ぶときに、しょっちゅう正面からのカットが入るんですけど、
 ここでうつる竜のカオが

 濃 す ぎ る !!

 んですよ! 
 最初に見たときびっくりしました。

 この竜、全体のビジュアルはすんなり見れますし、なんなら着地して一同が同じ地面に立っている状況での人間の目線からの横顔とかもいいかんじなんです。

 なのに、正面、飛んでるときのカオが

 濃 す ぎ !

 なんというか人面竜といったらいいのか、それはもう、「強烈な存在感を持った人間の顔そのもの」に見えるんですよ!
 目力がやたら強い。熱血みを感じる。
 そのくせ喜怒哀楽が出ない。
 いつも真顔で何考えてるんだかわからない。
 そのくせ呼べばすんなり来てくれる。

 幸福の科学映画って、わりと大画面にキャラとか人物の顔を正面から大写しにすることが多いんですよね。

 それから見たら、竜が正面から写るのは子供たちを乗せて飛んでるところなんで、画面の下半分くらいしかないはずなのに、

 それでも、あのご竜顔が正面から画面に映ると、
 「セリフをはじめ、ほかの情報が全く頭に入ってこなくなる」
 んですよ。

 ほんっとーに、尋常じゃない存在感。

 (映画を見てない方にこの時小生が受けた印象をどう説明したらいいのか……そうですねえ、ファイナルファンタジーの乗り物生物・チョコボのカオが星飛雄馬で、正面からうつした移動シーンになるとずっとその目でこっちを見られて大画面でこっちに向かって迫ってくる、みたいな?)

 ところが、この竜がまた、ひときわ謎の存在で。

 特に話のキーを握っているようには見えなくて、移動に必要な乗り物といった感じかと思うじゃないですか。
 地獄についたらさっさと「じゃ」とばかりに消えちゃうし。
 ところが子供たちが呼ぶと来てくれて、地獄の蛇とキングギドラ対キングギドラみたいな取っ組み合いをしてまで、子供たちを助けてくれたりもする。
 そしてあのカオ。
 ……もうおかげで「この竜、なんなの?」「どーゆー経緯でここにいるの?」と、やたら気になる。
 たまりませんね。
 「このカオ絶対人間だよな」「この竜、どういう人で、どういう人生送って、なんでここにいるんだよ」と、ホントに見終わった後にひたすら竜の謎が残るんですよ。
 
 ……で、この竜の正体ですが。
 小生の独断で考えましたところ……
 この竜が出てくる前に、もう一人、すごい存在感の謎のキャラがいましたよね。
 ……河童です。
 つまり、同様にこの竜も、

 芥川龍之介先生ご自身

 じゃないのかと。
 そう考えると納得なんですよ。

 河童として現れて子供たちを物語の深みに引きずり込んだ後、竜として子供たちをあちこち連れ歩いて物語を進行させ、危ないところでは守ってあげて、最後に阿波踊りの上空で、子供たちが現実の生活にもどっていくのを空から見送りに来ている芥川龍之介先生。

 「うおおおい! 熱い瞳の芥川龍之介……? 待てや!」
 といわれそうです。特に文学専攻の方から。

 「そんなん芥川じゃねーよ」
 「もっとシニカルだよ」

 うん。ご反論、よくわかります。
 小生も幸福の科学に出てくる芥川先生を見ると違和感なくもありません。
 だって芥川と言えば、大正デモクラシー、斜に構えた権威・宗教や宗教家への視線、「新現実主義の新思潮派」、そしてぼんやりとした不安です。
 作品全部読めばわかりますけど、そもそも、決して宗教を手放しで讃えてませんよね。特に、「この世の宗教の権威」や「形式主義」について強烈な皮肉をこめて書いておられる。
 (小生は芥川仏教掌編といったら、「蜘蛛の糸」より「尼提(にだい)」です。斜に構えてますね。クールです。だがそこがいい!!)

 でもですね、北村薫さんのミステリに「六の宮の姫君」という小説がありますね。

 お話は、現代(といってもかなり前になっちゃうけど)の女子大生が卒論を書きながら、芥川にまつわる文学的な一つの謎を追いかけ、解いて、それを卒論にしあげる話です。(卒論の書き方の実用書としても名作。ただし北村さんはバキバキの唯物論者だと思いますから、信仰者さんはそのあたりは斟酌して読んでさし上げて)

 この小説では、
 「芥川という方が胸の芯に熱血な部分を持っていて、それゆえに盟友だった菊池寛と別れなければならなかった」
 というように読めるんですよ。(このミステリを読んだ直後に、大川総裁の菊池寛の霊言とそれに関係した芥川の霊言を読むと、もうね……うるっときます)

 「彼は赤誠の人也、彼は熱情の人也」(芥川龍之介「木曽義仲論」)

 芥川という方は、「赤誠と熱情」に激烈に共鳴し感動する魂をお持ちの方だった。
 どんな人生を歩み、どんな作品を描いても、それこそが彼の芯にある、と大川総裁は見られたんじゃないか。
 映画の中の熱血な竜の瞳。
 あれは、おそらくは3万字をもって木曽義仲を讃えあげた、「木曽義仲論」を書いたときの、若き芥川龍之介の目じゃなかったのか。
 大川総裁は、その芥川の、奥の奥に秘めた熱い魂をもって「ドラゴン・ハート」というタイトルにつけたのじゃないか? と深読みしてみる。

 生前、うんざりする現実をいやというほど見て、その鋭敏なセンスゆえに、至高の文芸を残しながらも苦しみに苦しんだのち、自ら霊界に帰った芥川先生は。
 いま、河童として暮らしながらも、ときおり熱い瞳の竜として天界をかけている。
 楽しげに、クールに、そして自由に。

 ……いいじゃないですか。
 映画ドラゴン・ハートを見ながら、死後の芥川先生をそんな風に想像してみるのも、楽しいんじゃないかと思うんですよね。

 (……ところで、続きのレビューってマジでまだ需要ありますかねえ……このブログも竜のカオに負けないくらい濃いし分量多いですから……そろそろおなかいっぱいになったのではないかと思うのですけど)

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