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大川総裁 離婚訴訟の真実 Ⅱ 【検証】 幸福の科学・過去の三つの事件 (前)

 二月終わりの某日。
 総裁の「もと夫人」は、ついに、記者会見を開き、幸福の科学に対して宣戦布告をなしてきた。
 新聞も紙面を割いて、この訴えを取り上げている。

 もと夫人は
 「幸福の科学の発展は、すべて私が担ったのだ」
 と語り、莫大な慰謝料を請求している。
 また、
 「夫婦は対等、幸福の科学の半分は私が所有する権利がある」
 というニュアンスの言葉も漏らしているようだ。

 なるほど、新聞や週刊誌から見れば、幸福の科学が話題になると、決まってもと夫人が話に絡んでいたように見えた。
 だから、今回のその主張にも一理ある、と踏んで、各社、幸福の科学と実現党を叩けるとみたのだろう。

 いまのマスコミの状況を見るに、
 週刊誌二誌が相変わらず、もと夫人の応援をし、
 何社かの左翼系新聞社が遠巻きに取り上げ、
 幸福の科学と実現党の頓挫に期待しながらハゲタカのように周回している、
 という状態であろうか。

 もと夫人、これで後戻りは出来なくなってしまった。

 いっぽうで幸福の科学はといえば。
 今回の件に重要な関係がある霊言等を、続々出版する予定でいる。(←これ、かなり相当週刊誌側も、もと夫人は弱るだろうが)
 だが、そのほかは、いたって静かな態度である。
 反論はするが、事を荒立てようとはしていない。

 マスコミの中には、「今までのように派手に戦わないのは、夫人に理があるからだ。今度こそ幸福の科学と幸福実現党は痛いところを突かれたのだ!」と喜ぶ向きもあるだろう。
 だが、支部にいってみると、どこも、会員さんの間には、「反論できない」ための重い空気など全くなく、相変わらず訴訟前と同じ明るい雰囲気で、淡々と仕事がこなされている。

 実際、どうなのだろうか。
 もと夫人と、幸福の科学の発展の関係はどのような物だったのだろうか。

 今回は、ほんとうに「夫婦は対等」で、「教団の半分はもと夫人のもの」であるのか……「もと夫人と幸福の科学・実現党の関係」について、誰もが知っている材料を通して、検証してみたい。

【一般の企業では通らない「この会社の半分は妻のもの」】

 まず、宗教と言えば、教義である。
 もと夫人は、最初の頃、総裁の教えに関して、総裁の法話を具体化して講義することもあった。
 この具体化の例はとてもわかりやすく、また有用であった。
 だが、二十数年を見てみると、教学の面では、総裁が七百冊近い書籍を刊行し、数千回の説法をしているのに対し、もと夫人の出したのは最初の頃数年の十数冊の解説書と、あとは合計で二十数回の講義のみ。
 教義的には、とうてい教団財産の半分は要求できるレベルではない。

 では、実際の教団指導においてはどうであったか。

 大川総裁がもと夫人と結婚されたのは、幸福の科学発足から二年ほど経ってのことであった。
 そのときのもと夫人はどうであったか。
 その後、一年半ほどで、内部的に問題はおこしておられたが、半面、本当によく努力してやっておられた、といえると思う。
 特に、大川総裁が滅多に怒らない、実に穏やかな性格なぶん、もと夫人が、苛烈に叱りつける「用心棒」ぶりは、小さな教団を守ることに役立った、と総裁自身もコメントしていたように思う。

 これを世間的な会社で置き換えても、同様のケースはあるように思われる。

 たとえば、会社が小さい、いわばパパママストアのような状態では、奥様がしめる地位は非常に大きい。

 だが、会員百万人を超え、職員数も千人を超えていくとなると、もはやパパママストアとは呼べなくなる。

 一般の企業でも、従業員数百人クラスで、創業時の奥様が「私が発展させている会社」という言い分は苦しくなってくるだろう。

 それは幸福の科学で言うと、だいたい1991年、公称信者数が百万人を超える、その少し前までぐらいではないか、と思われる。

 だから、今回の

 「幸福の科学を発展させたのは、もと夫人であるから、団体側は多額の慰謝料をもと夫人に払うべき」

 という週刊誌の言い分が通るには、

 「従業員が数百人を超えてからの、1991年以降の二十年間、団体の発展をもと夫人が指導し続けた」

 という客観的事実がなければならないし、幸福の科学側から見たら、「そのようなことはなかった」ということを実証してみせる必要があるのだ。

 検証すべきは、1991年以降の二十年間の期間、ということになる。

【この二十年の幸福の科学の三つのトラブル】

 ではいよいよ検証に入る。
 公平を期すために、誰もがよく知っている事件と、団体がこれまで普通にオープンにしてきた発言等の材料を使うことにしたい。

 もと夫人と、それを担いだ週刊誌二誌の言い分がどれだけ合っているのだろうか。
 じつは、今回の訴訟が起きる前に、大川総裁が以下の趣旨の言葉を語っている。

 「幸福の科学は、これまで、どちらかというと、『お騒がせ団体』としての取り上げられ方が多かった。
 いま、『お騒がせ団体』といわれた『お騒がせ』の部分そのものが外に出て騒いでいる状態です」

 言われてみると、小生には気がつくことがある。
 今回の、もと夫人の手法を見てみると、それは、

 「一方的な宣戦布告と、マスコミを巻き込んだ派手な先制攻撃」

 である。

 この戦いの開き方……・
 これ、じつはこれまでの幸福の科学の、トラブルに見舞われたときの、戦端の開き方に通じていはしないだろうか?

 これまで、幸福の科学が、週刊誌等にバッシングされた代表的な事件が三つある。

 一つは、1991年の講談社フライデー事件。
 二つ目は、2009年の衆院選で、幸福実現党の立党と、「敵地先制攻撃を」の発言。
 三つ目は、2006年末に起きた大川総裁・三男のいじめ事件、等々。

 いずれも、はたで見ていて、マスコミのバッシングはかなり激しかった。
 どれも、教団・あるいは実現党が潰されたり、揺らいだりしてもおかしくなかった。
 しかし、そのピンチをしのぎきり、教団も党も勢力を維持し、延ばし続けている。

 これらには、常にもと夫人が重要な立場で登場してきたかに見える。

 じつは、小生や、その周囲の会員さんは、それらの事件のすべてをリアルタイムで見聞きしてきたので、事情は容易に振り返ることが出来る。

 以下は、簡単な、「幸福の科学のトラブル史」、とでもいえる内容になるかと思う。

【検証その1.1991年、フライデー事件】

 まず、フライデー事件。
 1991年の秋、週刊フライデーが、発足二年目にして会員百万人を突破した、幸福の科学に対して捏造記事を掲載し、アンチキャンペーンを行うことを決定した。
 大川総裁が精神科にかかっていたというような内容であったと思う。
 それに対し、幸福の科学の職員のMさんが抗議文を持って講談社を訪れた。
 その際、会員の有志多数が同行して、さながら小さなデモのような列ができ、講談社門前には会員たちが押しかけた。
 さらに、その後三日間ほど、会員から講談社のあらゆる部門に抗議の電話が殺到した。
 三日間ほどで抗議が収まり、講談社もやれやれと思っていたら今度は幸福の科学から訴訟を起こされる。

 結局、後年、講談社の記事が完全に捏造だったことが明らかになった。
 しかし、このとき、マスコミは、全面的に講談社側にたった。
 週明けのワイドショーは、抗議文を持っていった職員と、それに続く会員さんの姿を撮影し、扇情的に編集して、幸福の科学は、「怖い狂信的なカルト団体」のイメージを印象づけることに成功した。
 (このとき狂喜乱舞して満面の笑みで幸福の科学を批判したのが江川○子氏である。江川氏は、「こんなふうに数で来られますとね、怖いな、怖いなってね」といって、笑顔で可愛い仕草で怖がって見せたあの姿は、正直、一生忘れられない。氏は、衆院選の時も、「幸福実現党が全員落ちたら暴発してテロを起こす」と自信満々で、国内のあちこちのマスコミはおろか、海外の記者にまで断言していたらしい。現実の結果がどうであったかは言うまでもない。)
 テレビは、講談社や写真週刊誌のうしろぐらい部分には一切触れず、幸福の科学がカルト団体としてとりあげて叩いた。
 毎日、各局、朝昼のワイドショーで、である。
 ……いや、あの時はほんとうに凄かった。新聞、テレビ、週刊誌はおろか、なんと、コミック雑誌までも、日本中のメディアというメディアが一丸となって幸福の科学を排撃していた。
 (今、離婚訴訟がいくらとりあげられても、会員さんたちは平然とした顔をしているのが不思議に見えるかも知れないが、当時を知っている小生たちからみれば、今回、週刊誌二誌の連載記事など、実感として、扇子で扇がれたほどにも感じられないのだろう。)

 さて、この時の、過激にみえた抗議の方法。
 じつはこの「戦闘指示」こそ、「もと夫人」から出ていたのだ、ということである。

 それに対し、大川総裁はどうしたか。
 総裁は、このリカバリーのために、九月に「希望の革命」という法話を行った。(なんと、これはテレビの朝のワイドショーで一部が放映され、要約までもが女子アナの口から語られていたのである)
 また、総裁は幸福の科学の当時のトップの部下たちに対して
 「私に全ての攻撃が集まるようにしてください。なぜなら、幸福の科学の中で、私がいちばん強いからです」
 と指示を出した。
 そして、言葉通り、積極的に自分たちを叩いているマスコミの取材にも自らが応じた。(今回の訴訟で、もと夫人側についているマスコミ二誌も、この時総裁のインタビューを載せていたはずである。当時の雑誌がうちにまだある)
 あまつさえ、某テレビA社で、評論家T氏とのナマ放送での対談も行った。

 (小生の記憶では、そのときの総裁に、霊能があるならこの場にいる人間の過去世を言ってみろという話になった際、
 海江田万里氏が「いや、(私のは)やめておきましょう、どうせ大した人物ではないだろうし」というのを、大川総裁が「いえいえ、立派な方ですよ」とだけ返したり、
 島田紳助氏の過去世が「瓦版売り」であるのを霊視した後に、内心落胆したらしい紳助氏に、「ごめんなさいね。有名な人でなくて」と総裁が思い遣り深くフォローしたりするのを見て、「なんだ、みんな自分の過去世って気になるんだなあ」と感心してみたような記憶がある。なお、そのときに女性の芸能人らしき人もスタジオにいたのだが、終始、不気味な物をみるような目つきで総裁を見ていた)

 さらに、総裁は、自分たちのみならず、それまでマスコミ被害に関しては泣き寝入りせざるを得なかった人たちの事例を挙げ、「写真週刊誌等の悪書追放」キャンペーンを展開して、バッシングを逆に公的な運動の発端とし、景山民夫氏や小川知子氏らが中心となって、頻繁に一万人規模のデモを行った。
 むろん、風当たりは激しかった。
 なにせ、マスコミが「ワルモノ」といっているのある。
 二十年前、正義の味方・マスコミ様にたたかれれば、日本ではどんな団体も、どんな個人も、総理大臣さえも、終わりになるはずだった。
 その攻撃は執拗だった。
 テレビでは、幸福の科学が警察に許可までとって行っていた、当時恒例の「悪書追放」のデモの列に、女性リポーターがつっこんでいき、一般の参加者を捕まえて、「これが法律違反になる行為だと知っていますかっ?」(←そんなわけあるか!)というような趣旨の質問をした映像が映されたりした。
 また、デモの直前、景山民夫氏が、幸福の科学だけではない、事実無根のスキャンダルを載せたようなタチの悪い雑誌を燃やして、その後にハトが出るようなマジック仕立てのパフォーマンスを行ったのを、ハトが出る部分をカットして「焚書坑儒の危険な宗教」みたいに編集して流したりもされた。
 とにかく、各社のワイドショーでは徹底的にワルモノ扱いである。

 だが、それに対して、小生の周囲の会員さんたちはといえば、先生の意を汲んで、「ここが勝負のしどころだ」、とばかりに、行く先々で泥を投げつけられるような思いをしながら、「悪書反対」の署名をとり、全く怯むことなく果敢に伝道を続けていたのを覚えている。
 当時は、小生の場合でも、悩んでいる友人に、気軽に幸福の科学の本を一冊薦めただけで、「なにっ、あのコウフクノカガクだとっ!? けしからんッ!」と、
 そのまま永久に縁を切られるようなものすごい雰囲気が蔓延していた。
 (当時の会員さんは、このとき、かなりの友人を失ったのではなかろうか)

 だが、やがて、砲火は収まった。
 フライデーが敗訴しはじめたのである。
 (このときも、テレビ局は、幸福の科学が地裁等で敗訴したケースばかりを夜のニュースで流し、講談社が敗訴した場合は一切報道しなかった、という徹底ぶりであった)
 やがて、マスコミも飽きて取り上げるのを止めてしまった。
 しかし、総裁と会員さんたちは活動をやめなかった。
 その結果。
 なんと、幸福の科学の会員数は減少することなく、戦後初めて、「マスコミと戦って信者数を伸ばし得た」団体となった。

 これがフライデー事件のあらましである。
 この件に関して、主に、もと夫人の出したのは最初の過激な戦闘指示の部分である。
 その時に戦う会員さんに、「この人たちのためには命も惜しくない」と、もと夫人は語っていた。
 しかし、実際に、開戦によって引き起こされた、マスコミの膨大なプレッシャーに負けず、それを押し返したのは、総裁と会員さんたちの力に負うところが大きいように思われる。

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