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2009年10月31日 『不屈の精神を磨く』下関支部精舎(1) 維新の志士の過去世と今世

 10月31日、下関支部精舎にて『不屈の精神を磨く』開催。
 前の記事より少し古いが、下関に入った総裁の口から、維新に関して面白い話が語られている。

 冒頭、
『山口県の説法ははじめてだということで申し訳ない。』
 『現代でもここはそれなりに遠い。途中で用事をすませてしまう。いまでも交通の不便な場所。新幹線・飛行機でも不便。』
 『ここから明治維新が起きたのは実に不思議な感じ。維新のときも、ここから歩きながら行ったのだから、凄い。』(要約 小生)

 という感慨をもらされた。

 京都までの遠い距離。
 維新の志士たちの情熱を評価するにあたっての、意外な論点である。
 そんな遠い距離を歩いて旅をして、最後には皆、殺されるために京都に出向いた。物見遊山でもない、ただ国を案じるために。
 よくぞそこまで思い詰めた若者達が長州に多く出たものだ、と思うと胸が熱くなる。
 都から遠く遠く離れた長州は、ある意味救国の恩人なのだ。

 ……裏をかえせば、現代ではあるが、そこまで行脚にいかれた総裁もすさまじい情熱をお持ちだということになるのだが。

 ここで、いきなり面白いことに、
 『明治維新に光の天使として生まれて、活躍する前に殺されたという人たちが生まれ変わってここに座っているかも知れない。』(要約 小生)

 という話をされ、次に

 『実はうちも5人息子・娘のうち二人が、前世、長州藩。
 桂小五郎と言われた方と、あと山県有朋といわれた方、二人、引き受けておりますので、長州閥四割です。ご縁がないわけじゃあありません。』(要約 小生)

 歴史上の偉人をさらっと「引き受けて」という言い方をされる権威と、言葉のおかしみはさておいて、
 ……誰と誰ですか!?
 と、会員さんたちは思ったに違いない。

 ……法の本題からは外れるが、ちょっと面白いので、ここを考察してみたい。ちょっとカルト、もとい、オカルト系の話になることをお許し下さい。
 まず、桂小五郎については、文殊のお弟子の善財童子→天台智顗→桂小五郎という転生をされて、今世総裁のご次男であるという話はすでに出ている。

 (ちなみに、次期総裁候補とされているのはご長男ではなく、このご次男のほうではないかと思われる。ご子息たちが生まれた前後に、総裁が話されていたのを聞いたような気が…。
 なるほど、長じてみると納得であり、ご長男は組織、特に幸福の科学にはなじみづらかろうとわかる。)

 ……ではもう一人は? 

 山県有朋の過去世は、黄金の法によると、ヤマトタケル→韓信→山形有朋となっていたはずだ。

 いっぽうで、総裁の三男は、女性の政治家が男性として転生した、という話を聞いている。ご長女は豊玉姫として出雲にお生まれになったと聞いている、となると……

 伴侶「やっぱり、一番末のお嬢さんかな」 

 えっ、ヤマトタケルが女性で生まれているのかっ!?

 ……言われてみると、古事記では、タケルは女装してクマソを退治し、クマソからタケルの名をもらった、とある。女装が似合う美少年だったのだ。
 最後まで父王から酷く扱われ、失意の内に死んでいき、白い鳥となって魂が旅立ったという悲劇の若者には、どことなく線が細い感じがある。(ヤマトタケルのエピソードは、小生、小さいときに子供版の古事記を読んで、その中で一番印象に残ったエピソードであり、いまだに古典全集などで読んでもしんみりとしてしまう)

 総裁のご家族ネタは、とにかくやたら面白い。今後がかなり楽しみなネタがもう一つできてしまった。長生きして見届けたい案件である。

 さて、

『(長州人の)性格的は、まあよく言えば信念が強い。
 悪く言えば人の言うことを聞かない。
 我が道を行く感じ。
 自分で決めて、考え方を変えようとしないし、次男なんかは考えていることを明らかにしない。
 何を考えているかわからない』(要約 小生)

 わははははは。(←すいません、つい笑ってしまいました)
 ご次男については、ご長女の作文に「皮肉屋」と書かれていた。
 確かまだご次男が小学生ぐらいの時のことで、「小学生で皮肉屋なのか?」とかなり驚いた。慎重なご性格なのか? 
 伴侶曰く「繊細なんだよ」とのこと。

 『昔の広告「男は黙ってサッポロビール」。あの感じ。何を考えているか、親にも悟られない。友達にも読まれないように心に深く秘して十分の一も喋らない。
 ある意味では男らしいが、ある意味では不気味(眉を上下させる。会場は当然、笑)』(要約 小生)

 さらに、薩長連合を組んだときに、桂小五郎と西郷隆盛がどちらも切り出さず10日以上にらみ合っていたのを龍馬が仲介した、というエピソードがはさまれる。

 なお、関西、徳島あたりまではよく喋る人が多いのだそうである。日本は狭いというのに、こんなに豊かな個性と人材がひしめいているのだと、ひどく感心する。
 
 そして、この講義で面白いところがもう一つ。
 『吉田松陰先生について』
 である。
 『三十歳前になくなって名を遺すのは現代的に難しい』(要約 小生)
 と話され、それについて、総裁は

 『私もいたずらに馬齢を重ねてしまって』『未だ成就せずという気持ちが強くいたしております』(要約 小生)

 ……総裁がこれだけの実績でそういうことを仰られたら、弟子は全員路傍のカボチャである。
 しかし、こういう本音がぽろりと出てくるというのが、総裁の人柄を示す手がかりであるような気がする。
 他の団体の開祖や社長を見てご覧なさい。絶対こんな事は仰らないだろう。
 
 さらに、松陰という人の没時の話になり、

 『松陰さんが捕縛・護送されて、泉岳寺の前を通る。
 そこはちょうど現在東京正心館のある場所で、そこを通ったとき、「斯くすれば 斯くなるものと知りながら 止むに止まれぬ 大和魂」と詠む。』(要約 小生)

 これは、実現党そのもの、夏に出馬した総裁そのもののありかたである。
 七月には敗北がわかっていて、それでも全員が燃え尽きるまで戦った。
 負けが確定してから、総裁が出馬を表明し、火が付いたようにすさまじい街宣をくりひろげた。
 おそらくはこの夏、東京正心館の前を通る度に、この句をかみしめていたに違いない。
 泣ける。

 『松陰さんの人生を見ると、長くやればいいというもんでもないんだなあ、ということを感じる。
 太く、短くでもよいから、やはり激しい思い、激誠の人として、誠というのがほとばしりでるような、そういう人生を生きたならば必ずや後世に遺るものがある』

 『宗教家的な面も持った方であり、この世で何かを成し遂げたわけではないが、生き様に多くの人が感化を受けた』(要約 小生)
 
 以上は、松陰さんの人生への総括であろう。

 なにか、こう、「さん」とか「先生」を必ずつけて講義しているところを見ると、ご本人が会場……というか、演壇のすぐ脇に立っておられたのかな、という感じがする。

 ちなみに、幸福の科学では、吉田松陰という人の過去世は、火刑にあった中世の宗教家であると言われている。
 書籍『真理の発見』という質疑応答集に、維新の志士の過去世を聞いた質疑応答が入っているのであるが、それによればフスだそうである。
 ……うわ、あの人か。
 じつは、西洋でも有名人なのであった。
 ヤン・フスは、フシネッツのヤンと言われた人であり、貧しい農家に生まれて秀才を認められ、プラハ大学の学長にまでのぼりつめ、民衆に絶大な支持を受けたが、教会の免罪符に反対して、最期は生きたまま火刑に処せられた。
 実に細かく死ぬ間際のエピソードが残っていて、その記録はかなりインパクトがある。
 そして、高潔なままに火刑に処せられた姿は国論をゆるがし、チェコでは七月六日はヤン・フス火刑の日として祝日になっている。(西洋では聖人の殉教日が記念日になるのはよく聞くが……それにしてもいやな祝日ですね)

 そのとき、総裁は
『火あぶりになるような人は次に地上に出たら首を切られる。徹底的魂、徹底的に実を捨てて真理のために殉教する』(要約 小生)
 と解説していた。

 今回も、かの人について、

 『この世的にはある意味で生きるのに下手な方。無骨ではあるけれども、自分の思いに非常に 「正直」 というか、 「まっちょく」 に生きた方』(要約 小生)

 小生はこの部分を何気なく聞いてしまったが、これを聞いて伴侶は、なにかひとつ、連想…というか、ひらめいたことがあるようでした。
 伴侶「先生がこういう言い回しをするのはあまりないような気がする。」
 …なるほど、記憶にとどめておきたいと思います。 

 次回、 「総裁の、若者に対しての期待について」に続きます。

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