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幸福の科学の教えからただ一つを取れと言われたら

 少し前、小生はこのブログに、

 『宗教団体では、職員や会員さんは「肩書きのある人」とか「一般の会員」とかいうふうに、互いを区別したり、重んじたり、軽んじたりすることがあるが、仏の目にはどう映っているのか』

 という問いかけを記してみた。
 組織というのは大切だし、なによりわかりやすい。
 宗教団体の組織ともなれば、あたかも役職が上がるにつれて霊格まで上がっていくように思われがちである。

 しかし、以前、長く職員を務めた女性から、

「ほんとうは、「幸福の科学での役職」っていうのも、この世の資格や肩書きの一部にしかすぎないんだよね」

 と、聞いたことがある。
 この人はかなり良い職員であり、組織の規律を重んじる人であった。
 そんな人の言葉であったので、小生は驚いた。
 では、肩書き以上に大切なこととはなんなのか。
 宗教団体の肩書きでなければ、人は何によって、その人の「格」がきまる、と、幸福の科学ではみているのか。
 言葉をかえていうなら、
 「幸福の科学の教えから、ただ一つを取れ」と言われたら、どれをとるか」

 この問いにかんして、トルストイの民話の「二老人」という話を思い出したので、あらすじを書いておく。

 聖地エルサレムをめざす二人の老人がいた。
 一人は厳格で戒律を守る宗教的な男。もう一人はそこまで厳格ではないことを恥じているのだが、豊かで愛のある男だった。
 二人は、道の途中で、貧しい家族の住む家に立ち寄った。
 その暮らしぶりを見ているうちに、後者の老人は、とても見捨てることができなくなってしまった。彼はそこに残って働き、主の聖地に訪れるための路銀すべてを使い果たして故郷に戻る。
 さて、もう一人は情にとらわれることはなかった。
 彼は、一人旅をして、エルサレムの神殿にたどりつく。
 そこで彼が見たものはなんだったか。
 それこそが、途中でエルサレム行きを諦めたはずのもう一人の男が、自分よりもはるか前の上座に座っている姿だったのだ……というお話。

 これを幸福の科学に置き換えたりすると、『そんなばかな、聖地巡礼したほうが劣るみたいで、不公平じゃないか』というであろう。
 あるいは、
 『これはキリストが生きていないときの話じゃないか。キリストが生きているならそのひとに逢うことを最優先にするべきだ』と、言うだろう。

 小生もそう思わないことはない。
 しかし、大川総裁のとある言葉を聞いたとき、一見理不尽なキリスト教説話に流れる精神をつかむことができた気がした。

大川総裁曰く、 「幸福の科学の教えから、ただ一つを取れと言われたら、愛である」と。

 キリスト教の説話には、理不尽に感じるものも多いが、それらの結論というのは、「愛」こそが、仏神の側近くにあるための最後の条件、ということを絶対に忘れてはならない」、と、示しているのではないかと感じる。

 それはまた、幸福の科学の最も大切な教えでもある。

 幸福の科学では、多様な教え、多様な価値観を認めている。
 しかし、個人主義で好きに生きてだけいればよい、という結論にはならない。
 なぜなら、さまざまな価値観とは、突き詰めていくと、「魂の学習のための入り口」であり、多様なる価値観は、宗教的な認識力が高まるにつれて一元に止揚されていくものであり、その止揚された先には「愛」があるという思想である。
 ゆえに、「ただ一つを取るなら愛を取れ」なのだ。

 そして、それが空辣な題目でないことの証拠に、
 この夏の巡錫で、
 「肩書きのある人よりも、愛ある人の思いが、実際に総裁の足を止め、振り返らせた」 (前記事 参照)
という、まるで仏典にそのまま載りそうな事実があった、と言えるのではないかと、考える次第である。

 この団体の教えは、本当に生きた教えであるのだ、と思う。

 ……次回から、また総裁の最新講義にかんしてレポートする予定です。

地方巡錫エピソード(1)
地方巡錫エピソード(2)の記事は当面、非公開といたしました。

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