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大川隆法総裁第一声以降の街宣報道 / 1990年12月23日講義「復活の時は今」

【選挙期間中につき、幸福の科学教義・報道の紹介等の話題を中心に更新しております】

●大川隆法総裁 第一声以降、街宣に関する報道

「幸福・大川総裁、自民ばっさり」(2009年8月20日06時02分 スポーツ報知)http://hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20090820-OHT1T00017.htm

 第一声以降、連日街宣している総裁。
 早速、メディアに登場。
 小生の伴侶の解説によると、

 「記事になった総裁先生の発言は、いかにもマスコミとかネットの軽い人たちが喜んでくいつきそうな、下世話な話題。
 ガンガン目立ってメディアに出て行くおつもりだと思う」
 
 この記事に関し、某巨大掲示板ではアンチの連中が大喜びで「品がない」と総裁を叩いているようであるが、この場合、叩いた方が負けらしい。

 叩いてくれればそれで宣伝であり、叩かなければそのまま突っ走る、という戦術であると拝察する。

 街宣の模様は、選挙違反になるため、youtubeでは見あたらないようだが、会員間にはひそやかに原稿が流れている、とか。
 どこかにまとまって出てこないかと探索中。

 ……さて、上記したように、ネットの若い衆は、対マスコミ用に大川総裁が放った釣り針に見事にくいついて、「品がない」などと叩いて笑っているらしい。

 では、はたして大川総裁という人の気品はいかほどか。

 ここに、じつは、小生が「もし無人島に島流しにされるとして、持っていくものを選べ」といわれたら、その中に確実に入るであろう講演の音声データと講義録がある。

 それを紹介して、その回答に当てたいと思う。

●1990年12月23日「復活の時は今」幕張メッセ国際展示場 (書籍「無限の愛とは何か」第2章) について

 もう二十年近く前になる。

 1990年12月23日。クリスマスを控えた冬の一日。

 伴侶とともに、小生は東京に出向いていた。
 幕張メッセ国際展示場で行われる、「復活の時は今」を聞くためである。
 幕張メッセはいくつかのイベントが行われていたが、国際展示場はかなりの人数のはいる講演会場であった。
 満席の聴衆の前に、いつものように、総裁が (当時の肩書きは「主宰」だった)登壇する。

 だが、いつもと様子が違う。

 普通、講演会では、総裁は、「こんにちは!」という挨拶や、時事ネタのマクラになる話題をふる。
 しかし、今回は、最初から、口調が違うのだ。
 出だしから、一つの完成された詩を読むごとき静かな口調で話し始め、さらに静かな口調で、総裁は、こう語った。

「我はよみがえりの愛。
 我が姿は、その真なる姿は、愛。」

 ……来た、と思った。
 ……神おろしである。
 神おろしという言葉に抵抗があるならば、「なにか別な意識が、先生にかかっている」とでもいうか。
 もちろんそこらの霊媒の神おろしとはわけが違う。
 どこが違うかというと、ワイドショーなどで取り上げられる「霊現象」と違い、一時間、その「意識」は、我々に向かって、ひどく胸打たれる人生論と説諭を放っていくのだ。

 その日の講演は「愛とはなにか」がテーマのようであった。
 愛とは具体的にどのような行動か、という語りは、「太陽の法」の第三章にあるが、それとまた別の切り口である。
 総裁は、こう語られた。

 「愛は、姿もなく、形もない。/光がその暖かさを/無限に人びとの胸に伝えてゆくように/姿なきものでありつづけることを/ひとつのよろこびと感じている」(要約 小生)

 ……「愛」じしんに意志があり、愛自身がよろこびを感じている、という表現を、小生ははじめて聞いた。
 しかし、愛=神と置き換えると、すっきり通る。
 だとすると、この講演は「神の意志」に触れる内容であって、一体、いま総裁に入って語っているのは誰なのだろう、と鳥肌立つ思いがする。
 講演は続く。
 
 「愛とは/あなた方が/ひとりで生きているわけではないということ」
 「神があなた方を創られた時に、/あなた方をひとりにするのがしのびなく/あなた方の仲間を創られたという、/その事実に気づくこと」(要約 小生)

 そして、怖いのは、人がその心から「愛」を忘れ去ったとき、

 「自分の名前を忘れてしまった子供のように、/あなた方は、/自分が何者であるかを語ることもできず、/自分の親がいったい誰かも語れぬまま、/砂場で終日遊び暮らす子供たち」(要約 小生)のようになりはて、やがて、その無知は破滅を招く。

 「愛」という、人としての「出発点を見失ったときに、/すべてはむなしくなり、/終わりを迎え、/我々が一番大切なものさえ、失ってしまう」(要約 小生)というのである。

 ゆえに、「愛し合うということが、/人間であるための条件である」 と説かれ、
 「光あるうちに光の中を歩め」という有名だがやや解釈が難しいと思われる聖書の句が、その真意を明かすかのように使われていく。

 このとき、会場で忘れられぬことがおきた。
 開始十数分後、とつぜん、総裁の演壇の頭上、幕張メッセの開いた天窓から、午後の冬の光がいっせいに差し込んできて、全く総裁の顔と姿がその中に隠れてしまったのだ。

 まぶしさに目を細め、やっとのことで光の中で動く総裁の身振りを確認した。

 やがて、光の中でその人が語り始めたのは、なんと、新しい「山上の垂訓」であった。

「聴け。
心清き者は幸いである。
あなた方は神を見るであろう。
心貧しさ者は幸いである。
あなた方はなぐさめを得るであろう。
心正しき者は幸いである。
あなた方は悟りという名の幸福を得るであろう。
心優しき者は幸いである。
あなた方は永遠に神の側近くにいるであろう。
神を信ずる者は幸いである。
あなた方は永遠に私と手をつないでいる。
人びとの幸福を願う者は幸いである。
あなた方は義とせられるであろう。
この世に命を持ちて、神を見る者は幸いである。
永遠の栄光はあなたの頭上を飾る王冠となろう。」

 ……山上の垂訓は、聖書の中でイエスが説いたあまりにも有名な教えである。
 しかし、どうしたことか、オリジナルの聖書と比べて、こちらのほうが格段にわかりやすい。

 ここにおいて、もはや講演は、はっきりと、一冊の聖書を凝縮して、さらにそれを超えるような濃厚な内容になっているとわかる。
 内容は、愛の教えから信仰について説かれ、声の迫力もアクションも雪崩のように激しさを増し、息もつかせぬ伝道宣言が続いていった。
 天窓の光が収まりはじめ、ようやく「ああ、総裁の姿が見える」と思い始めたころに、講演は終わりに近づく。

 そして、この講演の最後の締めはまた、異様であった。
 いつもなら「みなさん、頑張って参りましょう」とか、「ありがとうございました」と、締めるはずの総裁は、あたかも、なにかの刻印、なにかの証明を残すが如く、静かに一言、

 「……1990年、12月、23日である。」

 と言って、静かに降壇したのである。(この最後の文章、書籍には収録されていない。)

 なにもかもが強烈であった。

 後日の総裁自身の解説によれば、この講演会一回のみにかぎり、ルドルフ・シュタイナーの人智学が説くところの「オーバーシャドウ」という、きわめて希有な意識現象が起きたのだそうである。
 (もう少し詳しい解説と考察は、当ブログでも日を改めて書いてみたい。)
 (なお、この日、総裁に「神がかって」きた意識とは誰だったのか。書くまでもないと思いますが、考察に変えて、他サイト様のこの記事をリンクhttp://www.geocities.jp/hi2000987/hiriponiyoruhukuinnsyo.htm ……なるほど、この御方、生前は大モテだったわけですか。確かに、見た目が美形でこんな説法を毎回されたら、女性はたいがい、くらくらーっと参ってしまうでしょうなあ。)

 この法話が説かれた二十年前には、こんな激しい戦列に参加するなど誰も想像すらできなかった。
 今、読み返してみると、このたび、白手袋をはめ、世直しのために立ち上がり、国を守って戦う彼の人の激しさは、この「愛」の教えに裏打ちされているのがわかる。
 大川総裁は以前、宗教家達の生涯について、
「愛の教えを説く者は、愛の中で平和な人生を送ることが出来ないんです」 と語られたことがあった。

 ……特に、おそらく、いま街宣車の上で、弟子達の応援のために病み上がりの声を振り絞っている総裁の心には、この講演の以下の部分が、どこかに流れておられるのではないか。

「神を信ずる者に、不可能などあり得ない。
神を信ずる者の前に、道は開ける。
あなた方の前に、永遠の愛の大道を開いてみせよう。
あなた方が私を信じたという、
そのただひとつの行為ゆえに。」(要約 小生)

 そして、街宣車の下で、街角で、この二ヶ月を戦ってきた会員諸氏の胸に響いているのは、同じこの講演でいうならば、以下の言葉であろう拝察する。

「神の国を打ち建てるは、言葉であり、言葉を姿形あらしめるのは、あなた方、神の使徒の使命である。
あなた方は日々、勝利しているのだ。
日々、人生に勝利しているのだ。
我すでに世に勝てり。
あなた方もまた、世に勝て。
この暗雲たなびく悪しき時代に、この濁世(じょくせ)に、負けてはならない。
神の教えを知り、
それを己れの心のなかの灯火とする時、
あなた方は世に勝ったのだ。
世に勝ったというその思いを
最期の時まで忘れてはならない。」(要約 小生)

 この夏、日本列島に突如として現れ、戦いを繰り広げている大量の候補者達の正体は、こうした教えを心に刻んで生きてきた、生粋の宗教者、「義人」達なのである。

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