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小生の考察 日本人の解けない洗脳(4) 「宗教が大切」な理由

 未だに、世界の多くの人が、「宗教が大切」だというふうに思っている。

 なぜか。
 これに関しては、ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟の誰かの台詞に、その心情が述べられていたように思う。
 古い新潮文庫の二巻の半ばから終わりのあたりだったと思うが、

 内容は「神などいないという思想を人が本当に信じるようになったら、この世の中に善はなくなってしまうだろう」というような悲痛な訴えだった。

 梅原猛氏も、「「ドストエフスキーは、宗教がなくなったら道徳もなくなるのではないか、という不安を感 じて、そういう問題を『悪霊』や『カラマーゾフの兄弟』で問うたのである」と解説しておられたように思うので、これは、小生だけの意見ではないはずだ。


 「宗教がなくなれば、道徳や思いやりも消えてしまうのではないか」

 このドストエフスキーの問いに対して、世界の知識人達は、「そんなことはないのだ。人類は、宗教から解放されて、自由な新しいステージに立っているのだ」と言いつつ、いまだ答えを出していない。

 たとえば、少し前に、「人を殺してはなぜ悪いか」という論議がでている。
 色々意見が出たが、どれも決め手に欠けていた。

 じつは、神仏や魂がない、としてしまったら、人を殺したら悪い理由は見あたらなくなってしまったのだ。

 だが、唯物無神論者も皆、これには困って、「人を殺しても問題はないんだよ」とはさすがに言えず、懸命に「人を殺したら悪い理由」を考え出そうとして、躍起になっている、というところであろう。

 だが、それは成功していない。
 いかな理論を振りかざしても、最終的に、好きに人を殺して自殺に成功すれば自分は消滅するのだから、人の感情なんて無視すればよろしいのである。
 人を殺すのが不快だから、という理由にしても、最近はボタン一つで綺麗に大量殺戮が出来る。

 宗教では、「死後も生があって、それはこの世の生き方での精神的延長がある」、ということなので、人を殺していけない理由は明快である。
 「人を傷つけ殺したなら、肉体を脱いだ死後に、人とつながっていた自らの魂が味わっていた、すさまじい激痛と苦痛が表面化して、何百年も苦しむこととなる」
 という思想を真剣に信じるように育てられると、無差別殺人などできなくなる。

 結局、人間をしゃっきりさせるには、この、不明瞭な信仰の部分に根拠があったようである、ということが、ばれて来はじめてしまったようなのだ。

 そういう話をすると、「いや、そんな死後とかいうオカルトは嫌いだ、やはり信仰は必要ない、なぜなら人類には「道徳」、というものがあるじゃないか」、という意見も聞かれる。
 信仰は不要、道徳だけあればいい、と。

 ところが、道徳というのは、もともと宗教の神秘的な部分を切り離して、そこから発生したルールだけを論じたものだ。
 カントなど読むとそう読める。
 神仏の部分が嘘だと言うことになれば、道徳を守る必要はべつに無くなる。(道徳と名前をつけても、ニーチェの思想は果たして道徳と呼べるかどうか。)

 じっさい、人間の感覚は他者と切り離されていて、人の痛みがわかるわけでもないのだから、強い者が弱い者を嬲ろうが殺そうが、べつにそんなのは「ただの事実」にしか過ぎない。

 種の保存と言うが、我々は別にそんな欲求を普段感じない。
 なにもかも嫌になったら自殺すれば良いだけのことであって、自分と他者とは関係がない。
 自殺が嫌なら無差別殺人して死刑になればいいと考えるだけである。

 唯物無神論者達は、なんとか神や霊界を無くしても倫理が永続的に成立する思想を必死で探しているのだが、どうしても、それが発明出来ないでいるようなのだ。

それに対し、頭で理論をこねくりまわす知識人とは違って、いっぽうで、実際に世の中を行き渡っている世界中の大多数の人々たちはといえば、この世を越えたものに対する巨大な存在を、本能的に感じ取って畏敬の念を持ち、「信仰なくば獣の仲間」(トマス・モア)という思想と感情を大切にして、今日も信仰を大切にして生きている……。

 ……小生には世界の状態が、そんな風に見えるのである。

 こんな話になると、
「ばかだねえ。今の日本は唯物国家だが、そんなに治安もモラルも悪くないよ」
 という答えが返る。
 ところが、それはそうでもなくなってきたのだ。
 

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