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2013-11
「風立ちぬ」と「飛べ!ダコタ」~二つの空のしめすもの(2)
- 2013-11-22 (金)
 - 幸福実現党観察日記
 
 一部地域で「風立ちぬ」の客入りを上回ったと言われる「飛べ! ダコタ」。
				 ストーリーは単純明快。
				 昭和21年1月のある日、佐渡ヶ島の海岸に、悪天候で一機の英空軍機「ダグラスDC-3」が不時着する。
				 まずいことに、その機には、英国の重要人物である、総領事が乗っていた。
				 島の人々は、英国人の不時着に心が揺れる。米英は「鬼畜」であり、息子や朋友を殺し、嫁に行った娘一家を爆撃で無差別に殺した連中であったからだ。
				 だが、村民たちはクルー達と心を通わせ、やがて、島の子ども達までが手伝って、佐渡の海岸に、村民の手による手作りの長い滑走路が完成し、再びダコタは空に飛びたち、島を去って行くのである。
 なぜこの物語がこんなにこの土地で受けたのか。
				 記事には、「佐渡の人も知らなかった心温まる実話が興味をひいたのでは」と言う。
				  確かにそれもあるとは思う。
				 だが、土地の人々は、別の目でこの映画を見たように感じられる。
この二つの映画を象徴するのは、「空」の描写にある気がしてならない。
 宮崎アニメの「風立ちぬ」の、空と風の描写を思い返してみる。
				 ……すばらしかった。
				 冷たく美しく、ありありとそこに、一つの霊界の空を見るようだった。
				 宮崎監督は、間違いなく、日本どころか、世界のアニメ史上かつてない空と風の美しい描き手であったことを証明した。
				 それだけではない。
				 あの「関東大震災」の描写は、日本どころか、世界のアニメ史上に残るのではないかと思う。
				 後半、駅でくずおれるヒロインを主人公が抱え込む、あの体の動きの質感も強烈だ。
				 日本がいくら誇っても誇りきれない、一人の職人が心血を注いだすばらしいアニメーションの技術。
				 だが、どうしたことだろう。
				 あれだけ凄いアニメ技術を見せられたというのに、見終わったあとのこの空虚さ、そして、なんともいえない、すっきりしない、胸の晴れない感覚は。
 対する「ダコタ」はどうか。
				 劇場で、映画始まった直後、息を呑んだ。
				 ……ぞっとするような、鉛色。
				 鉛色、鉛色、どこをうつしても、鉛色。
				 冬の嵐のような風と波の轟音。
				 一面に狂う鉛色の中で、ただ白くぞっとするような波が荒れ狂う。
				 落ちたらひとたまりもない冬の海だ。
				 その頭上には、鉛色の荒れた空が映る。
				 青い空など、一片も見えない。
				 しかも、この映画は、最初に荒れ狂った海からはじまり、最後に、灰色の海にどんよりと光が差すエンディングまで、一つも晴れやかな光景が映らない。
				 「風立ちぬ」の空とは、正反対だ。
				 ……だが。
				 この映画の、地元の人にとっての最大の魅力は、実はここではないか、と思う。
 つい一昨日、地元の老人会の人と話をしたとき、
				 「きのう、箱根旅行から帰ったが、あちらの海をみて呆れ果てた」
				 という話を聞いた。
				 曰く、
				 『あっちの海は、なんと、平らなんだよ。海が「まったいら」で、波がねぇんだ。
				 しかも、青い。空と海が青い。十一月でまだ、サーファーなんぞが波乗りしてるんだぜ』
				 という。
				 逆の立場から見てみよう。
				 西日本や太平洋岸の人たちは、「空は青いものだ」、と思うだろう。
				 冬であっても、空や空は青いものだ、と。
				 そうした人々がこちらに転勤になると、晩秋からの「青くない」空の色を見、海の色を見、寒さを体感し、とどめの降雪に見舞われると「うえっ」となり、早く転勤してもう一度、もとの土地に帰りたくなる人も多いと聞く。
				 なにせ、日本海岸は『裏日本』と呼ばれてきた。
				 以前、大川総裁がこの土地で、冬に講演したときに、「(太平洋岸から来て)トンネルを抜けると、一面の雪の平原で、あたかも別な世界、別な惑星にきたように感じた」という表現を用いられたことがあった。
				 確かに、「別な惑星」かと思うぐらい、世界が違うと思うときがある。
 「裏日本」では、一年の半分近くを、この鉛色の光景の中で過ごし、建物がつぶれるような雪に降り込められて過ごす。
				 青く心を晴らすような空と海が「表日本」なら、心を陰鬱にさせる灰色の空と海は「裏日本」そのものだ。
				 東北の宮沢賢治作品「永訣の朝」で、
				 「蒼鉛(そうえん)いろの暗い雲から みぞれはびちょびちょ沈んでくる」
				 「あんなおそろしいみだれたそらから  このうつくしい雪がきたのだ」
				 と描写された空に、それは近い。
				 だが、この土地には、それに加えて、あの狂気のような荒れた鉛色の海が広がっている。鳴り止まない、轟音のような海風の音。
				 厳寒と積雪を体験している者であれば、劇場であの音を聞いただけで、真冬でも体が震える気がするだろう。
				 その鉛色の海と空に囲まれた大地はどんなところか。
				 そこは、冷たい雪と入りまじり、冷たくぬかるむ泥が広がる橋世だ。
				 映画の中で、丸木で組んだ神社への階段で、片足がきかなくなった登場人物が、倒れて、その冷たい黒い泥を握りしめるシーンがある。
				 「風立ちぬ」と比べて、それはなんと陰鬱な風景だろうか。
				 だが、これは、役者の芝居や風景のセット、アニメの絵を映した映像ではない。
				 過去のものでもない。
				 現実なのだ。
				 昔に比べれば、生活ははるかにましになったとはいえ、風景の陰鬱さは変わらない。現実に、こうした世界で、今日もこの土地の人間は暮らしている。
 これを見た、地元の人はこう思ったのではないか。
				 ……ここに写っているのは、まぎれもなく「俺たちの空」だ、と。
				 これにくらべたら、「風立ちぬ」は、「綺麗な絵空事」でしかないのではないか、と。 
				 さらに、その陰鬱な世界の中で描かれる、地味この上ないドラマを見終わったあと、不思議なことに、二時間見続けた荒涼とした寒々する光景とは裏腹に、見終わった人の胸には、なんとも熱い感慨が、そして人に対する希望のようなものが芽生えている。
				 心が、晴れ晴れとしているのだ。
				 そして、気づく。
				 あれほどの、世界のアニメーション史上最高レベルの技術の作品、美しい映像が、地味な邦画に一時期、破れたのは、まぎれもなく、そのもとにある「思想」ゆえではないか。
				 この二つの作品に流れる「愛」の質について考えてみると、それがもっとはっきりとわかるような気がする。(続きます)
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