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2013-10

やなせ氏の訃報によせて~「あんぱんまん」とアンパンマン(中)

 ……実現党、ならびに幸福の科学とは直接関係はないものの、多くの人を幸せにした「成功者」として人生の幕を閉じたやなせたかしさんと、その作品「あんぱんまん」について、謹んで書かせていただいています。

 ……さて、 やなせさん、50歳の作品、「あんぱんまん」。
 宗教家の生涯をも連想させる、その1冊の絵本。
 だが、その評判は、すこぶる悪かったという。
 編集者たちは
 「やなせさん、こんな絵本はこれっきりにしてください」
 と言ってきた。
 「顔をちぎって食べさせるなんて、あまりにもひどすぎる。絵本というのは、子どもたちに夢を与えるものでしょ。この作者は、いったい何を考えているのかしら」
 とは、幼稚園の先生方の談。
 「顔を食べさせるなんて荒唐無稽」「もう、二度とあんな本を描かないでください」
 出版社がさらに、念を押した。そして、
 「ああいう絵本は、図書館に置くべきではない」
 と、児童書の専門家が断じたのだ。(『絶望の隣は希望です!』やなせたかし 小学館 より)
 彼らとって、この作品は「下品」だという。
 これについて、やなせさんが、
 「下品? どこがだ! これは『無償の愛』の話なんだ!」
 と、当時を振り返ったテレビ番組で怒っていたのを見たことがある。
 やなせさんの主張はこうだ。
 『正義を行い、人を助けようと思ったなら、本人も傷つくことを覚悟しないといけないのです。自己犠牲の覚悟がないと、正義というのは行えないのです』(前掲書より)

 ……それにしても、なんともやりきれない酷評ばかりだったことか。
 そもそも、「我が身を食べさせるのが残酷」「荒唐無稽」というが、わずかでも宗教的素養がある人ならば、少し考えれば誰でも、仏典・ジャータカ物語の「我が身を飢えた虎の親子に食べさせた」、仏陀の前世、サッタ王子による「捨身飼虎」の物語などを思い出すはずなのである。
 仮にも文学者たちが大勢いて、なぜ誰もこの古典説話との共通点に思い至らなかったのか。
 このあたり、後になって知ったのだが、日本の児童文学界というのは、戦後、かなり左翼に毒されていたように思われる。
 これは、児童文学のみならず、戦後の文学界、あるいは文学関係者全般が、左翼の牙城になっていたことと関係があるのかもしれない。
 ともかく、日本の文壇というものは、児童文学も、写実的で現実的で左翼的な作品ばかりを評価しがちだった気がする。
 そんな風潮のところへ、首なし男のヒーローや、スーパーマンのようなコスチュームなど、あまりにも斬新な物語は、児童文学界から嫌われたのではなかろうか。ましてや、左翼諸氏のだいきらいな自己犠牲によるヒロイズムも入っている。

 しかし、評論家や大人達の酷評とは裏腹に、この本をおいた幼稚園の先生方は、この本がいつも誰かに読まれていて、いつのまにかぼろぼろになっていることに気づく。
 子ども達が、愛読しているのだ。
 ストーリーのおもしろさ、自己犠牲の優しさに加えて、首なしのヒーローのインパクトは、まるでお化け話・ホラーを読むような怖いもの見たさなどがあったのかもしれない。
 やがて、何年かのち、ついに子ども達の長い長い堅実な支持に気づいた出版社が、これをシリーズ化し、次々と続きを出すようになった。
 人気はとどまるところを知らず、たとえば、「幼稚園のトイレに入るのが怖い」、と泣く子供たちのいる園で、トイレの壁にアンパンマンを(確かやなせさんご本人が)描いて、大変に喜ばれた、などというような話を聞くようになった頃、アニメ化のニュースが出た。

 だが、このときすでに、この作品には大きな変化が起きていた。
 「あんぱんまん」は「アンパンマン」になっていたたのだ。
 「アンパンマン」には、あの、荒涼とした夕焼けの砂漠も、飢えて死にそうな男も出てこない。
 あの「長身の首切られ男」をも思わせたヒーローは、子どものような頭身のヒーローとして定着し、茶色のマントから、つぎはぎは消えていた。
 そして、敵役の出現。憎めない悪役の「バイキンマン」や、ルパン三世の峰不二子みたいなワガママ自己中女「ドキンちゃん」である。
 アンパンマンの頭は、飢えている人を助けるため食べられるシーンは少なく、むしろ敵役に汚水をかけられたりして力が出なくなる物語のギミックに使われる。
 全体のストーリーはタイムボカンシリーズのように、ヒーローは、毎回現れるちょっと憎めない敵役に対して容赦なくパンチやキックを繰り出して、ピンチになりながらも世界の平穏を守る。
 ……楽しい世界ではあった。
 だが、「アンパンマン」がそこらじゅうにあふれかえるのと裏腹に、絵本「あんぱんまん」は「恥ずかしいから絶版にしたい」と作者に言われ、ほそぼそと版を重ねつつも、その評を見ることすらほとんどなくなった。

 嬉しい半面、淋しかった。
 「あんぱんまん」が、消えてゆく。
 やなせさんの心の中に、もう「あんぱんまん」は居ないのだろうか。

 いや、そんなことはなかった。
 アニメ「アンパンマン」の主題歌。
 初めて聞いたとき、耳を疑った。
 それは、アンパンマンのうたでありながら、「あんぱんまん」のテーマが、問いの形で投げかけられていたからだ。
 ……
 『何が君の幸せ?』
 『何を見て喜ぶ?』
 『何のために生まれて 何をして生きるのか』
 『答えられないなんて そんなのは嫌だ』
 ……
 子供向けの歌の冒頭に、聞いているほうが恥ずかしくなるような、重くストレートな歌詞が連なる。
 あまつさえ、
 『愛と勇気だけがともだちさ』
 と、愛を実行する者たちの、「我一人立つ」の強烈な気概が歌われている。 
 さっそく、作詞段階で、「歌の内容が難しすぎる」と難色を示されたが、やなせさんは「子どもに手加減してはいけない」と押し通したそうである。

 これを、子どもたちが歌うのか? 
 全国の幼稚園や保育園で、子供たちが?
 ……そう、子どもたちはみんな、喜んで歌ったのである。

 そして、その主題歌が流れるアニメが、ついに始まった。
 絵本同様、アニメもまた、「こんなもの、どうせ売れないだろう」と、徹底的に冷遇されたスタートだったが、絵本と同じく、子ども達に支持されて大評判を博した。
 大ブレイクすればしたで、今度は、新しい揶揄と嘲笑が次々と出てきた。 
 洒落っ気の強いネットの若い連中が、
 「アンパンマンってさー、『愛と勇気だけが友達』なんだから、あれだな、食パンマンやバタ子さんとか、登場人物全員、アンパンマンとは友達じゃなくて、単なる仕事上のつきあいだったんだな」
 と、あの重い主題歌を嘲笑し、瞬く間にそれが流行った。
 「アンパンマンって正義の味方だけど、
一方では犯罪者じゃん。アンパンチは傷害罪だよ。」
 と、自称「元いじめられっ子」の若者が毒づき、たちまちネットで拡散された。
 環境左翼な子育て論者たちからは、「キャラクター商品はよろしくない。子どもには手づくりの無印を」と言われるとき、引き合いに出されることも少なくなかったように思う。
 
 だが。
 どんな誤解があっても。
 どんな中傷や嘲笑があっても。
 正しい志に裏付けられた仕事は、逆風に逆らって、さらに大きな仕事をすることがある、ということを、「あんぱんまん」が再び教えてくれるできごとがあった。
 東日本大震災である。
 未曾有の被害が出たその時、人々はうちひしがれた被災地のFMラジオで、一つの曲が繰り返し流されるのを聞いた。
 アニメ「それいけ!アンパンマン」の主題歌「アンパンマンのマーチ」。
 ……
 「そうだ 嬉しいんだ 生きる喜び
 たとえ 胸の傷が 痛んでも」
 「そうだ 恐れないでみんなの為に
 愛と勇気だけが 友達さ」
 「時は早く過ぎる 光る星は消える
  だから君は行くんだ 微笑んで」
 「そうだ 嬉しいんだ 生きる喜び
  たとえ どんな敵が 相手でも」
 ……
 『いや、沁み入りました、あの時には。あの歌が沁み入りました。』
 そう語ったのは、コピーライターの糸井重里氏だ。(【「箱入りじいさん」の94年。 やなせたかし×糸井重里 – ほぼ日刊イトイ新聞】http://www.1101.com/yanase_takashi/2013-08-08.html
 震災のあとも、この曲のリクエストは多かったという。
 幾度も幾度も、批判と嘲笑と中傷を浴びせられながらも、そのヒーローの主題歌の歌詞は、ある日突然の未曾有の震災に見舞われ、とてつもない苦しみに突如見舞われた、多くの折れそうな人々の心を支えたのだった。(続きます)

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